人物でたどる鶴岡の歴史 2025
【本間勝喜氏略歴】
昭和37年 鶴岡南高校卒業
昭和41年 慶応義塾大学卒業
昭和49年 東京教育大学大学院退学
昭和61年 明治大学大学院修了、山梨県大月市立大月短期大学講師、羽黒高校講師を歴任。
現在、鶴岡市史編纂委員。
掲載インデックス 2025年
第156回 東堀越村の育苗者 今井文六(上) 2025年10月15日号
第155回 郷土史研究の先駆者 安倍親任と一族(五) 2025年8月15日号
第154回 郷土史研究の先駆者 安倍親任と一族(四) 2025年6月1日号
第153回 郷土史研究の先駆者 安倍親任と一族(三) 2025年4月1日号
第152回 郷土史研究の先駆者 安倍親任と一族(二) 2025年2月1日号
■鶴岡の歴史 バックナンバー
・2024年 掲載 ・2023年 掲載 ・2022年 掲載 ・2021年 掲載 ・2020年 掲載 ・2019年 掲載 ・2018年 掲載
2025年10月15日号
私の手元に鼠のかじった跡が大きく残っている江戸時代幕末頃の文書一点がある。数十年も前に鶴岡市内の古書店で購入したものである。
鼠のかじった跡は大きいものの、記述されている文章に及んでなく、問題なく判読ができるのはありがたいところである。
文書に表題が記されていないので、内容から判断して、仮題として「江戸後期増川組御用留」としておきたい。支配役所の指示だったり、支配役所への報告書だったりが多いからである。
もともと丸岡領一万石のうちに属していた増川組村々は、江戸時代の大部分の年月を幕領(天領)として送った。そして幕領といっても、幕府代官の支配を受けたのはごく短く、多くの間庄内藩の預地であった。庄内藩の預地役所の支配を受け、年貢は預地役所を通じて幕府へ上納したのであった。
右に紹介した「御用留」の記事の中で、注目したのは増川七カ村組に所属した東堀越村についてのことである。
庄内の村々の幕末の状況を記した「二郡詳記」(鶴岡郷土資料館文書)には、東堀越村は村高が八二八石五斗三升三勺、戸数六十六戸の村であった。当時の一村は戸数三十戸程度が標準であったので、六十六戸というのは二倍もあって、大きな村であり、耕地などの規模を反映する村高も大きかった。そのため、いつの頃からか名主が二人勤めであった。
幕末頃の名主は叶野甚右衛門と文六(今井姓)であった。甚右衛門は苗字を名乗ることが許されていた。
さて、先の「御用留」に次のような記事が載っている。
年始 東堀越村
上下着用 名主文六
外金弐分
右は十六ヶ年已前未年名主 申付、村方は勿論、外村之 儀も厚意に取扱、一同帰服 いたし、田方作柄之儀心 懸、種稲撰出し、増川通は 勿論、其外村々にて植附、 近年自然落作もこれ無き趣 相聞、抜群之義にて御用道 出精につき、書面之通御称 誉成し下され候
戌十二月(文久二年)
叶野甚右衛門
これは文久二年(一八六二)十二月、来春新年を迎えるに当たり、預地村々で功労のあった者を預地役所の年始に出席させるもので、東堀越村の文六も出席するように指示され、当日は裃を着用して出席するものであり、その際金二分(二歩)を賞誉として与えられるのであった。
そして、賞誉の理由として二点あげていた。一点は文六が弘化四年(一八四七)以来十六カ年も名主を勤めていて、村内はもとより、他の村のことも親切丁寧に取り扱っていて、そのため増川組村々一同が心から従っていることである。
もう一点は、文六が新しい稲の種籾を選び出したのであり、その結果庄内で広く植え付けられ、近年は自然落作もないということであり、大変な功績をあげたことである。
東北大学農学研究所の教授をされて、庄内の民間育種にも造詣の深い菅洋氏はその著『稲を創った人びと—庄内平野の民間育種』(東北出版企画刊)の中で、「豊国」が育種された事情について、大和村(庄内町)の檜山幸吉が明治三十六年に、「文六」を植えた田より変種を抜き取って選出したものと述べている。「豊国」とは、大正五年(一九一六)に一万三千九百三十九㌶に作付けされた、庄内の民間育種の中でも代表的な稲であった。
「豊国」の原種である「文六」は天保年間(一八三〇〜四四)には作付けが確認されたし、明治三十年(一八九七)代にも作付けされていて、少なくとも六十年以上もの年月作付けされていた稲ということである。そのうえ、「豊国」を通じて大正、昭和まで生き続けたわけである。今井文六の選出といっていいであろう。
現在のところ、最も早い庄内の民間育種として知られる大野村(庄内町)の阿部治郎兵衛による、明治初年選出の「大野早生」よりも三十年以上も前に「文六」は選出されたのであり、その育成者とみられる今井文六こそは庄内の民間育種における先駆者中の先駆者といって過言ではないであろう。
作付状況を把握すべく、幕末の史料で確認しようとするが、まず居村の東堀越村にはあまり古文書が残っておらず、肝心の東堀越村での栽培状況は不明である。隣村の蛸井興屋村の場合、嘉永四年(一八五一)の「当亥田方立毛見合附御通筋取調帳」(下蛸井文書、藤島地域)に、翌五年八月のこととして、
三右衛門水尻 文六種
一、四十四株
改壱升壱合 四合毛
嘉永五年子八月二十四日
という記載があって、当時「文六」が栽培されていたことが確認できる。
2025年6月1日号
嘉永四年(一八五一)に安倍九兵衛親任は、「新編庄内人名辞典」の記すように御用屋敷役人となった。
安倍家「代々勤書」(鶴岡市郷土資料館)にも同年八月のこと、「御用屋敷御舎弟様方御付御役人仰付られ候」とある。舎弟というのは九代藩主・酒井忠発(ただあき)の弟や妹などのことである。
勤務中の嘉永六年四月に茂之丞様が御用屋敷から城内に引き移ったが、その際親任はいろいろ世話したのであった。茂之丞は正しくは繁之丞であり、後に十一代藩主となる酒井忠篤(ただずみ)のことである。
安政三年(一八五六)八月には、徳之助が同様に城内に引き移った。同人は後の十二代藩主・酒井忠宝(ただみち)である。
安政四年三月、良之助(忠発の六男)が城内へ引き移ったが、同人が八月に死去したので、親任はその葬儀の準備を担当した。
同五年三月に御用屋敷に住んでいる方々の生活費の倹約について数年尽力したことから、役料二十石が与えられ、合わせて高百石となった。親任の知行が八十石と「少知」であるとしてであった。
安政六年五月に、右の舎弟たちが温海入湯に出かけたが、親任がその留守中の責任者を勤めたので称誉金百疋の目録が与えられた。
右のように、万延元年(一八六〇)四月まで九カ年ほどの間に、 助、富之進、お鉚、繁之丞、徳之助、良之助、銈之進、賢之助、お増、禎吉郎と十人の方々の世話をしたのであった。なお、富之進は後に十代藩主となる酒井忠寛(ただとも)である。つまり、後に藩主となる者が三人もいたのである。
そして同四月に御用屋敷役人から中川通代官に転じたのである。中川通は川南の平野部の中心地域であり、横山、押切、藤島、荒川、長沼、広野の各地区が含まれる。
早速、同年十一月に黒森村、坂野辺村の村持新田の検地を行った。
同月、義父の九八郎親規が七十才以上の老人であったので、御隠殿より小鴨二羽が与えられた。
文久二年(一八六二)二月に願って許され、通り名を九兵衛から甚兵衛に改めた。これは家中の坂部九兵衛が用人より小姓頭に昇進したことで、同名であるのを遠慮したためであった。
翌三年七月から九月まで山浜通立合を勤めた。山浜通にも二人の代官がいたわけだが、何か事情があって二人の代官の補助的な役を三カ月ほど勤めたのである。
同十一月、御隠殿普請につき領内から人足を寸志として家がけで提供させたことから、溜池で獲らえた小鴨一羽が大殿(忠発)より内々で与えられた。この普請は忠発夫人や家族たちが国元に来ることに備えたものであった。
これは幕府が同年八月に参勤交代制度を緩和し、江戸に居住していた大名の家族の帰郷を命じたことによる。
それより以前、御用屋敷役人を勤めていた時、同所の収支の削減改めの係を勤めていて、削減のため出精したので、そのため剰余金がだんだん多くなり、諸品購入の仕法が立ち、かなりの剰余となったことから、今度剰余金を藩の土蔵に納めることになったとして称誉金三百疋が与えられた。
元治元年(一八六四)八月、庄内と由利郡にあった天領が庄内藩に与えられたので、翌慶応元年から旧天領の本領化が進められた。同二年十一月に旧天領の村々がそれぞれ本領八組のうち最寄りの組に入れられることになった。そして年貢など諸事本領並みとされた。ちなみに、庄内藩領の本年貢はすべて米などの現物納であるが、旧天領では現物納は一部であり、大部分は金納であった。
慶応三年三月、庄内藩は村々の土地台帳である水帳を改めることになった。親任は担当の中川通の村々で作成した水帳と同人為寄帳を早々に完成させて提出させた。なお、同人為寄帳は個々の農民ごとにその所持する田畑・屋敷を書き上げたものである。
明治元年(一八六八)春、領境が物騒になってきて、戊辰戦争では中川通の村々の取り締まりや農兵取り立てをはじめ、その他いろいろの御用があって廻村し、ついでに村々に申し含めて諸御用を滞りなく勤めたとする。
戦争中で代官も駆り出されて不足だったので、七月より平田郷、山浜通の代官立合を命じられて勤めた。中川通代官として相役だった高田織右衛門は輜重方として由利郡へ出陣し、戦争が終わってからは江戸(東京)、磐城・平などへ出向いていたので、親任は一人で代官の役目を果たしたのであり、酒井家転封免除のための献金の募集に当たったのであった。
明治二年三月、転封に備えて親任も御用係を命じられたが転封中止となった。集めていた献金に含め、自らも金百両を上納することになった。
2025年4月1日号
安倍甚兵衛家の四代目・九八郎親則は前回述べたように、嫡子・隼太が出奔したのに、ほかに男子がいなかったので、家中・長坂市郎の三男・丸山源七親任を婿養子とした。そして天保十三年(一八四二)九月に隠居したので、その後を親任が継いだ。
ところで、婿養子となった時の親任は丸山源七と名乗っていた。どうやら親任は一旦丸山家に養子となったが、不縁となり長坂家に戻っていた。その時点で親任はまだ丸山源七と名乗っていて長坂姓に戻っていなかった。
ちなみに、庄内藩家中には丸山姓の家はなかったようで、御徒以下の下級藩士には数軒の丸山姓の家があった(明治十年「金禄短冊」鶴岡市郷土資料館)。親任が一旦養子となった丸山家は御徒以下の下級藩士であったとみられる。
いかに三男とはいえ知行二百石の家中に生まれた親任が下級藩士の家に養子に行くのは何か相当の理由があったはずであるが明らかでない。また丸山家から戻った理由も明らかでない。
間もなく安倍甚兵衛家に婿養子になったことからみても、養子に不向きだったとも思えない。
ともかく、親任は丸山姓のまま、天保元年(一八三〇)中に安倍甚兵衛家へ婿養子となったのである。
同年九月に藩に養子願いをして許された。親任は十一月に家老たちに会い、嫡子並みの奉公をすることになった。例えば、養父・親則が病気になるなどして勤番をできない時に、代わって城内で番代を勤めるなどするのである。
その後、嫡子時代の親任については特段記するほどのことはなかったようである。ただ、天保十一年十一月に突如、酒井家が越後・長岡への転封を命じられ、翌年七月にそれが撤回されるまで、九八郎・親任父子は長岡へ引っ越すべく心構えをして準備していたことであろう。
天保十三年四月、酒井忠発が九代藩主に就任したが、同年九月に親則は隠居願いをして許され、親任に跡目を譲ったのである。そして親任が知行八十石を相続して、安倍甚兵衛家の当主となった。「並家中」という家格を命じられ、親則の時と同様に組頭服部行蔵組に所属した。
家中は基本的に重臣である一人の組頭のもとに家中組として二十数名の家中が属し、一組を組織していた。
同年十月、新藩主となって酒井忠発(ただあき)が初めて鶴岡に下ってきたので、家中の士に対し祝儀として城中で料理を与えられたので、親任も頂戴した。
同年十二月、願って名前を源七から九兵衛と改めた。
天保十四年五月に浜中谷地、十右衛門谷地、さらに十六谷での惣列卒に親任も参加した。鶴岡在住の家中の士が装備して藩主の前で軍事訓練を行ったうえで、整列し観閲を受けたのである。
同月、親任は兵具方中役を命じられた。兵具を管理する役所である兵具方にあって事務職だったとみられる。同十二月、精勤したとして金五百疋を与えられた。通常褒美として与えられるのは金百疋か二百疋であり、五百疋ということは本当に精勤したのであったとみられる。なお、金一疋は銭十文である。五百疋は五千文である。当時金一両は銭六千五百文ほどだったので、金五百疋は一両足らずにあたる。
親任は右の兵具方中役を弘化三年(一八四六)四月頃まで勤めた(「諸役前録」郷土資料館)。そして、同五月に亀ヶ崎(酒田)の米蔵新井田蔵の蔵方役人の当分を命じられた。当分は臨時ということである。六月に本役を命じられたので、親任は鶴岡の家を離れて新井田蔵付きの長屋に住まいした。嘉永四年(一八五一)八月に鶴岡の御用屋敷などに住んでいた藩主・忠発の弟たち付きの役人となった。当時御用屋敷には 助、富之進、 助の子・賢之助の三人が住居していた。なお 助は後に米津(よねきつ)政易の養子となって米津政明と称したし、富之進は十代藩主となった酒井忠寛(ただとも)である。
嘉永五年九月、藩主・忠発の誕生祝いに際し、忠発の弟・酒井啓次郎より親任は肴一折の目録をもらった。翌六年四月に酒井繁之丞(後の十一代藩主)が御用屋敷より城内に移るのに際し小菊一束をもらった。世話になったという御礼であろうか。
安政元年(一八五四)四月、前藩主・忠器の遺骸が納められた棺が鶴岡に到着し位牌が大督寺に安置されたので、親任は酒井家の親族の者に代わって御香を焚くことになった。
この年十月、酒井忠次の妻大督寺殿(碓井姫)二百回忌の法事があり、やはり一族の者の代香を勤めた。ただ、碓井姫は慶長十年(一六〇五)十月に死亡しているので、二百回忌ではなく二百五十回忌の誤りとみられる。
2025年2月1日号
安倍親任が養子に入った安倍甚兵衛家について少し述べておこう。
甚兵衛家の初代は勝木平三郎重良である。平三郎の父親・勝木甚兵衛は安倍の本家安倍惣内の三男であった。しかし、初め安倍姓ではなく親族である勝木姓を名乗ったのであり、後年になって勝木姓から安倍姓に改めたのであった。
勝木平三郎は元禄三年(一六九〇)七月に、四代藩主酒井忠真の御供小姓に召し出され、手当として切米を通例の如くに与えられた。同六年十二月、中奥小姓となった。同七年八月、信州の戸隠山の戸隠神社への代参を命じられて勤めた。
同十一年七月に近習となった。
同十三年四月に新知百石を与えられた。ようやく正式に家中に仲間入りしたのである。
同十五年五月、庄内藩に預けられて鶴岡で幽閉の日々を送っていた元明石藩主・本多出雲守政利が問題を起こしたことから、江戸より田中宇右衛門という藩士が庄内へ下ってくる際に、平三郎は目付の役を命じられて一緒に立ち帰った。
元禄十六年に庄内勝手を命じられ、以後鶴岡住居となった。
宝永五年(一七〇八)十一月に近習の役に復帰した。この頃近習役が多く、藩主忠真が家老たちに諫められる一因となっていた。
正徳五年(一七一五)五月に病気のため近習を辞した。
享保十三年(一七二八)五月、冬貸金役並に家中用金加役を命じられた。加役は臨時の役である。
寛保元年(一七四一)六月、平三郎はその時点で六十六才だったようであるが、壮年になっていた養子がいるのに、まだ当主の座にあった。
養子・勝木平助は、越後にある庄内藩の預かり地で預地代官を勤めていたが、たまたま任地から戻ってきて、日頃から仲の悪かった家付き娘の妻、養母を殺害して高畑にある家に火をつけたうえ自害するという大きな事件が起こった。娘も深手を負ってその後落命したともいわれる。
当主である平三郎は同八月に先に挙げた役職を罷免されたうえ知行百石のうち二十石を削減された。
平助には二人の男子がいたが、罪人の子供は勝木家を継ぐことができないので、平三郎には継嗣がいないことになった。そこで同三年二月、家中・芳賀森右衛門の弟・芳賀又太郎の養子願いをして許された。
平三郎はもともと安倍姓であるからと願い、延享二年(一七四五)に苗字を安倍に改めた。
宝暦八年(一七五八)十二月、老年により隠居を命じられた。八十四才であった。それまで現役として仕事をしていたわけである。
甚兵衛家の二代目として家督を継いだのが又太郎改め仁右衛門重政である。知行八十石を相続した。
仁右衛門は同九年正月、御普請方・御人足方並に屋敷改、道方兼帯の当分役を命じられ、同七月に本役となった。同十年十二月、出精につき銀五両を与えられた。一両程度であればともかく、五両もの褒美金を与えられたのは余程の出精だったのであろう。
同十三年二月に御普請場目付の当分役を命じられた。明和五年(一七六八)五月、病気になり役職を辞した。
安永三年(一七七四)二月に老齢になったので隠居願いして許され、家督八十石を嫡子・和三郎に譲った。
甚兵衛家の三代目が和三郎良親である。翌四年に九郎右衛門と改めた。
同六年十月、中間頭を命じられた。同役を十三カ年勤めたうえ、寛政元年(一七八九)四月に駒市方並に寄金役に移った。
同五年七月、五十才で病死した。
甚兵衛家の四代目は九八郎親則である。同年九月、親の九郎右衛門の跡式高八十石を七才で相続した。同月、初めて七代藩主・酒井忠徳に御目見した。幼少のためしばらく無役であった。
ようやく文化二年(一八〇五)七月に酒井家の菩提寺大督寺の灯籠役となり三カ年勤めた。
同十二年九月、西御門当番の時に不調法の儀があって閉門を命じられた。十一月に許された。
天保元年(一八三〇)九月、嫡子・隼太が前年三月に出奔していて、外に男子がいなかったことから、長坂市郎の三男・丸山源七を婿養子とした。
天保五年十一月、御貸米方を命じられて、同九年十一月まで勤めた。
天保十三年九月、老年であると隠居願いをした。
