人物でたどる鶴岡の歴史
【本間勝喜氏略歴】
昭和37年 鶴岡南高校卒業
昭和41年 慶応義塾大学卒業
昭和49年 東京教育大学大学院退学
昭和61年 明治大学大学院修了、山梨県大月市立大月短期大学講師、羽黒高校講師を歴任。
現在、鶴岡市史編纂委員。
掲載インデックス 2022年
第139回 犯罪者となった大庄屋 大滝六郎治(五) 2022年12月1日号
第138回 犯罪者となった大庄屋 大滝六郎治(四) 2022年10月1日号
第137回 犯罪者となった大庄屋 大滝六郎治(三) 2022年8月15日号
第136回 犯罪者となった大庄屋 大滝六郎治(二) 2022年6月1日号 第135回 犯罪者となった大庄屋 大滝六郎治(一) 2022年4月1日号 第134回 裕福だった下級役人の日向家(下) 2022年2月1日号
■鶴岡の歴史 バックナンバー
・2022年 掲載 ・2021年 掲載 ・2020年 掲載 ・2019年 掲載 ・2018年 掲載
2022年12月1日号
断絶した大滝家について、「大滝氏家譜」(鶴岡市郷土資料館)などによって述べてみる。
大滝六郎治が自殺し、大滝家の断絶が申し渡された時、六郎治の養父大滝友八はまだ存命であり、六郎治の「犯罪」や自殺をどのように受け止めたものか。
友八は翌天保十一年(一八四〇)五月十二日に死去した。やはり大きなショックを受けたのであろう。十一代も続いた大庄屋大滝家が断絶となったことには、同人も相応の責任を感じたはずである。
ところで、友八の妻は庄内藩士仙場広蔵の娘であり、大滝家の断絶にともない離縁となった。その後、幕領余目領常万村(庄内町)の豪農日野九右衛門に再嫁し、同家で亡くなった。日野家は余目領を代表する富家であった。
六郎治の妻春代は鶴岡三日町(本町一丁目)住の町大庄屋河上四郎右衛門の妹であり、大滝家の断絶にともない一旦実家河上家に戻った。二男一女の子供もいたわけであるが、子供は伴わなかった。
その後、天神町(神明町)春日神社の社家天池清彦の妻となって豊江と改名した。事件の三十二年後の明治四年(一八七一)十一月、五十七歳で病死した。
さて、大滝六郎治の長男を時保と言った。生母は春代(後改め豊江)である。天保四年(一八三三)正月、本郷村(朝日地域)で生まれた。父六郎治が二十五歳の時であった。
時保は幼名を宗太郎と称した。父六郎治が自殺し、大滝家が断絶となった時、時保は七歳の小児であった。時保は父の兄であり、川北古川組大庄屋であった伯父佐藤八右衛門に預けられた。。弟妹も一緒であった。同家は古代の豪族田川太郎の子孫と称され、田川組大庄屋を勤めていたが、当時は川北古川組に移っていたのである。
因みに、天保四年は大飢饉の年であり、六郎治は窮民救助に当たったが、その際それを妬む者から讒訴(ざんそ)されたというが、誰がそんなことをしたものか。少々考えにくいことである。
時保は天保十二年(一八四一)九歳の時に、羽黒山の前華蔵院宥深の弟子となって勝丸と称した。これは藩の命令であり、助命するに当たって、ある年齢になったら出家することに決められていたことによろう。
時保は天保十五年四月に六等を授けられたといい、深融と称した。嘉永三年(一八五〇)十八歳で善行坊と称し、羽黒山善台院の看坊となった。看坊というのは留守番のことであろうか。
嘉永五年三月、二十歳の時円珠院に転住した。同七年十二月に手向・正善院に移り、同院に十二年間いた。正善院といえば羽黒山十大寺の一つに数えられ、かつては大いに栄えた。
文久二年(一八六二)十月、三十歳で比叡山に上り大阿闍梨賢者法印に任じられた。
元治元子年(一八六四)十二月、山主の命により智憲院に転じ、権大僧都宥純と称した。智憲院といえば、大先達の修験にあたり、羽黒山でも屈指の名門である。
羽黒山の場合、権大僧都の位で別当や執行を勤めている場合もあるので(「羽黒山歴代別当・執行一覧表」、鶴岡市史編さん会編『荘内史要覧』)、記述の通りとすれば、羽黒山でトップ級の位置に上ったことになろう。
更に、明治三年(一八七〇)、明治維新の神仏分離令により復飾し、僧侶から還俗して一般人に復帰し、菅原長称と名乗ったのである。
因みに、菅原姓としたのは、平安時代を代表する学者であった菅原道真にあやかったものといわれる。本人も羽黒山を代表する学者であり、和歌にも長じていた。
長称と称するようになって、明治六年三月、三山神社祢宜を拝命した。なお祢宜は神主の下であったようである。
「大滝氏家譜」の記述はそこまでで終わっており、その後については記載がない。
その後について、子孫の方に残されたり伝えられたりした史料や言い伝えなどによれば、長称は復飾して一般人となったので、明治七年四十一歳の時に妻帯したのであり、妻となったいよゑは元庄内藩士の娘で、当時二十一歳であった。子供も長男、二男、長女と三子が誕生し、菅原家はその後も続くことになった。
六郎治については藩政時代には表立って弔うことができなかったであろうが、明治になって藩制が崩壊すると、墓を造って弔うことができたのである。
墓は青竜寺(黄金地区)の金峯山登り口右側の小山の上に現存する(写真を参照)。戒名は「相應道實居士」である。
六郎治の子孫の方々は同人を「犯罪者」とみることに否定的であることを一言しておく。 (終)
2022年10月1日号
大滝六郎治は荒川組大庄屋として役目を順調に勤めていたのであったが、他方問題も生じてきた。
「天保四巳年(一八三三)悪作難儀之控」(鶴岡市郷土資料館)という史料に、「戌(天保九)十一月頃より第一ほっとう人と申ハ本郷組大庄屋大滝六郎治と申者」と記され、何か良からぬことを六郎治が先頭になって企てたとしているようである。
しかも、「大滝氏家譜」(同前)には、同人が天保十丁(己)亥不調法ノ次第有之ニ付鶴岡田屋ヨリ出奔」と、鶴岡三日町(現昭和町など)に置かれた田屋(代家)より逃亡したとする。
代家は村々から鶴ヶ岡の役所などに用事があって出てきた者が安く泊まれる宿泊所であると共に、簡単な取り調べなども行うところであった。
六郎治も何か取り調べなどで代家に呼ばれていたようであるが、その代家から逃げていなくなったのであった。代家での取り調べはそれほど重大なことについてではないので、逃亡などを想定しておらず、代家には代家守はいても特に警備の者はいなかったので、逃げようと思えば、いつでも逃げられたのである。
六郎治は天保十年になって早々に何か問題があるとして、代家で取り調べが行われることになり、同人も代家に出向いていたのに、取り調べが行われる直前に逃亡したということのようである。
同人の逃亡は想定外のことであったが、日を置かず正月十四日付で郡奉行より大庄屋たちにその旨の通達がされた。支配下村々に対し見当たり次第に召し捕らえて差し出すようにと命じられた。なお、逃亡のことは六郎治の親類よりの届け出を受ける形がとられた。
二日後の一月十六日に改めて郡奉行より大庄屋たちに対し、六郎治の行方が今もって知れないので、油断なく穿鑿し、発見次第に召し捕らえて差し出すか、あるいは匿っているのを訴え出た場合は格別の褒美が与えられるはずであるし、逆に匿ったり、その件を知っていながら見逃したことが後に判明した時は厳重に咎めるとし、それらをよく弁えたうえで申達するようにとしていた。
一月十九日には代官より人相衣類書が領内に伝えられた。そこに記された年齢・人相などは次のようであった。
覚
一、年三拾壱才
一、中背中肉、色黒、丸顔、疱瘡之跡有之、髪眉毛厚ク、眼太クすると(鋭)き方、耳常体、鼻筋通高キ方、歯並不揃、言舌早ク高キ方
これによれば、六郎治は当時三十一歳である。逆算すると文化六年(一八〇九)の生まれとみられる。六年前の天保四年(一八三三)の本郷・田沢両組(朝日地域)の騒動の時はまだ二十五歳であったわけで、義父友八の手に負えなかったのに、いわば部屋住みの若年の身で八百人も集まった群衆の騒動を取り鎮めたのであり、すでに農民たちの信頼を得ていたのである。
同人は中肉中背であり、色黒く丸顔で、顔には疱瘡を煩った跡であるアバタがあった。髪はふさふさで眉毛は太く、眼も大きく鋭い方であったし、鼻筋通って高い方であるが、歯並びは良くなく、早口で声が高い方であるとする。声が高いのは大勢の群衆に呼びかける時には都合が良かったのであろう。
そのような人相書きが領内に広く触れられたのであり、領内では隠れる場所もないことになったはずである。
そのためか、行方不明となって二カ月ほどして羽黒領手向で六郎治は発見された。
「六冊秋官志 三」(郷土資料館「閑散文庫」)によれば、六郎治は手向(羽黒地域)の大泉坊のところに隠れ住んでいたが、鶴岡の方には三月九日にその情報が届き、十二日に足軽目付・同心らの捕方を差し向けて大泉坊に侵入したところ、六郎治は土蔵に行き、同所で自殺したので、死体を引き取って、御仕置場に仮に埋めたとする。いずれ死骸を取り出して処罰を加えるのであろう。江戸時代にはそのようなことが時に行われた。
それによって、寛永八年(一六三一)以来十代に亘り二百年余りにも及んだ大庄屋大滝六兵衛家は家名断絶となったのであった。
なお、十二月に至って鶴岡町奉行より正式に処分の申し渡しが行われた。
荒川組大庄屋
大滝六郎治
謀札或は謀判を以所々より 金子才覚いたし候段不届至 極ニ付、存命ニ候ハ・引廻 之上獄門可申付処、自殺
右之通親類共江可被申渡候
庄内藩では藩札を発行していなかったので、この場合の謀札は歩座(米相場所)などで売買される米札のことであったと思われる。
2022年8月15日号
天保四年(一八三三)七月二十七日の本郷組・田沢組(朝日地域)の上田沢村神社の社地での農民たちの集合を、地元に置かれた大庄屋役宅住まいの大滝友八はすぐに知ったのであり、早速止めに入り解散させようとしたが、農民たちは全く聞き入れず、どうしようもない状態であった。
ところが、翌二十八日に伜の六郎治が鶴岡から戻ってきて、間に入ってようやく収束したという(「藤治郎日記」、鶴岡市史史料集『生活文化史料』)。
六郎治は当時二十五歳であったが、農民たちから信頼されていたのである。同人は友八の実子ではなかったが、農民たちとは日頃からよく馴染んでいたようである。
翌五年一月、田沢組八ヵ村の内六ヵ村の肝煎と二十三名の猟師が連名で、田沢組大庄屋の大滝六郎治を通して代官所に熊狩りの際に必要な塩・味噌・米を購入する代金の拝借を願い出たという(佐々木勝夫「朝日軍道は幻か〈その四〉」、『荘内日報』二〇二二年五月二九日)。おそらく許可されたことであろう。
養父友八はすでに隠居していて、六郎治が大庄屋となっていたのである。
天保六年は雪解けが遅かった。藩主酒井忠器一行は鶴岡を三月十日に出発したが、清川口が雪崩のため、最上川の通行ができず、六十里越えの陸路を通ることになった。
その際、六郎治は道案内ということで本道寺(西川町)まで出張することになった。六郎治は三人の者を従えて本道寺へ同行したのであり、九月になって四日分の旅籠銭一貫四百六十文を受け取った(市史史料編『閑散文庫』)。
そんなこともあったし、少なくとも天保七年(一八三六)には、六郎治はまだ本郷組・田沢組の大庄屋を勤めていたのである(『朝日村史』上巻)。
そして、翌八年正月までには荒川組(中川通、羽黒地域)の大庄屋に異動していたようである。
同年正月早々、六郎治は荒川組村々の肝煎に対し、鹿の角が至急入用であるから、所持している者は自分の所まで早々に差し出すようにし、万一所持していない場合は、十八日までその旨申し出るようにと指示した。自分ではなく、藩のどこかの役所が必要としていたのであろう。
同年三月、荒川村の枝郷で飛地の今野村(羽黒地域)小三郎という農民が質入れした田地の年季が明けたにもかかわらず、質取主の方で請け返しに応じてくれない旨の訴えを荒川組大庄屋大滝六郎治あてに提出した(谷定・阿部家文書、鶴岡市郷土資料館)。それを受けて六郎治より何か指示があったことであろう。
六郎治は荒川組大庄屋ながら、大庄屋屋敷を荒川村に置かず箕升新田村(藤島地域)に移していた。
天保九年八月、庄内藩で天保改革が始まり、村々の旧借分が切り捨てられた(『庄内藩農政史料』下巻)。村々が藩や役所より借用している米金の切り捨てである。しかし三方領知替えの問題も起こり、この改革は不徹底に終わったのであった。
それでも中川通では、老幼の者や病者などへの救済とともに、非常御備籾米の分として、年貢米のほかに、高二十石米一俵の割で当分の間年々差し出させることにした。富農を除けば、一般農民にとっては、それなりの負担となったことであろう。
同年十一月の時点で、六郎治の支配する荒川組での「高二十石米一俵」の分は、荒川組の石高が七千十九石一斗余であったので、年貢米一万五千七百九十一俵二斗のほかに、米三百五十一俵を取り立てるものであった。
なお、中川通の大庄屋たちは取り立てた「高二十石米一俵」の分の内、当分米二百八十俵を与えてほしいと願っていた。その理由として、当時中川通には持ち主のいない村上地高五千石余があるうえ、潰れ百姓らの極窮者がいるので、それらから高二十石一俵の米をそのまま取り立てることができないからとする。困窮農民への配慮が必要だったのである。この歎願はとりあえず当年一ヵ年のこととして許可された(『山形県史・近世史料』2)。
同じ天保九年十月には穀止が厳命された。中川通では代官加藤理兵衛から大庄屋たちに担当の村々に厳重に伝えるように命じられた。年貢皆済前に米を売ったりするのを禁じるものである。
凶作に対応するためばかりでなく、年貢正米納の趣旨もあって、穀止の実施を厳重に行おうとしたようである。
右のような農政の中で、大滝六郎治の動向についてみていると、荒川組大庄屋となってからも、以前と同様に真摯に大庄屋の役目を果たしていたようである。大庄屋の役割をよく理解しており、農民の状況もよく把握していたようである。
2022年6月1日号
安永年間(一七七二〜八一)に黒川組大庄屋に異動していた大滝彦兵衛は、その後もしばらく黒川組に留まった。
「黒川組六ヶ村寛政七年川欠書上帳」は、黒川組六ヶ村それぞれから寛政八年(一七九六)六月に大滝彦兵衛あてに提出された(桜井昭男『黒川村春日神社文書』、以下黒川村についての史料はすべて本書による)。ただ、前年に起こった洪水に伴い発生した川欠が、なぜ半年も過ぎて届けられたものか少々疑問である。
その頃庄内藩で寛政改革が始まった時期であり、そのことと何か関係があったものか。
翌九年かと思われる巳四月の「春日神社社地の枯杉伐採願」は、出願した黒川村法光院らと共に大滝彦兵衛が加判して寺社奉行所に提出された。問題なく許可されたことであろう。
寛政十年は凶作だったので、知行取に与える物成は少々少ない平均免三ツ九歩余(三割九分余)で、家中などに与えられることになった。大滝家も知行取(高八十石)だったので、その通りに受け取ったはずである。米八十俵(納四斗入)余になったことであろう。
寛政十二年(一八〇〇)六月に「田沢用水不足のところ宝谷村百姓不埒につき口上書」が、黒川村より大滝彦兵衛あてに提出された。
文化三年(一八〇六)、赤川を挟んで黒川村対岸の東荒屋村(櫛引地域)などとの間で畠地をめぐる村境論が起こったが、大庄屋大滝六郎右衛門が仲裁して内済にしたという。本格的な争論にならずに済ませたのであった。
大滝家で代替わりがあったようで、彦兵衛から六郎右衛門になったのである。
翌四年八月に「黒川村新開見取田高入れ願」が、黒川村の農民重郎三郎らから大滝六郎右衛門に出願された。条件の悪い土地を開発して生産力の不安定な見取田の分として検地を受けて、低い高を付けてもらい少々の年貢を納入しようとしたのであろう。
文化七年十月、入会地で黒川村農民が我儘であると、今度は宝谷村(黒川組)の方で大滝六郎右衛門まで訴えた。おそらくこの場合も内済になったのではなかろうか。江戸時代にはこのような争論が数多く発生した。
文化十一年(一八一四)九月に越中山村(朝日地域)など六カ村から越中堰普請願が大滝六郎右衛門あてに提出された。
六郎右衛門より郡奉行所に直ちに取り次がれたことであろう。新しく用水堰が開削されれば、新たな新田が開発されることになる。
さて、鶴岡一日市町在住の町人による「滝沢八郎兵衛日記」(鶴岡市史資料編『生活文化史料』)の文化十二年四月のところに、大庄屋の異動について次のような記述がある。
一、当四月、本郷大庄屋萩原 甚五殿青竜寺へ参、同所大 庄や大川四郎右衛門殿黒川 へ参、同所大庄屋大滝六郎 右衛門殿本郷へ参ル
これによれば、黒川組大庄屋大滝六郎右衛門が本郷組(朝日地域)へ移り、黒川組には青竜寺組より大川四郎右衛門が移ったというのである。
大滝六郎右衛門は今度は本郷組大庄屋となったのである。ところが、『朝日村史』上巻には、文政元年(一八一八)時の大庄屋を大滝友八と記しているので、その間に大滝家また代替わりがあって六郎右衛門から友八になったのである。
友八は文政元年から天保五年(一八三四)まで田沢組大庄屋も兼務した(『朝日村史』上巻)。
その間、文政七年のことと思われるが、申閏八月に、田沢組村々で掘った薬種の買い上げ値段をめぐって同組の肝煎たちが大庄屋友八に出願を行った(佐々木勝夫「いまこそ『農魂』庄内の大地からまっすぐに」、『荘内日報』二〇一九年六月一三日号)。薬種の買い上げ値段が安いので引き上げてくれるようにとのことであろう。
このように買い手が藩というのは、値段が低く抑えられがちになったのであろう。
天保四年は「巳年のききん」などといわれているように、大変な凶作であった。雨が降り続いたようである。
当然、米の値段が引き上がることになる。「庄内一番値段」では、金十両に米十二・五俵替えであり、例年の三倍ほどの高値段であった。
山村地域である本郷組・田沢組でも米を購入する者が多かったので、高い米価は農民たちにとって大いに困ることであった。
本郷・田沢両組では寄合を催し、集会を行うことに決めたのであり、同年七月二十七日両組の農民たちが上田沢村(朝日地域)社地に集まった(「藤治郎日記」、鶴岡市史資料編『生活文化史料』)。窮状を何とかしたい、してほしいということであろう。
そのことを知った友八が社地に駆けつけたが、集会を解散させることはできなかった。
2022年4月1日号
江戸時代初期、青竜寺村(鶴岡市黄金地区)のあった青竜寺組に大滝六兵衛という大肝煎(大庄屋)がいた。
因みに「怪異談」という物語では、大滝家ははじめ添川の大庄屋であったとする。当時添川組の大肝煎は伊藤帯刀という者が勤めていたので、大滝六兵衛が添川組というのは事実ではなかったと思われる。
大滝六兵衛が青竜寺組の大肝煎に任じられたのは寛永八年(一六三一)のことであった。扶持米十俵を与えられ、青竜寺組二十八カ村を支配した。
ところが、翌年寛永九年に熊本藩主だった加藤忠広が突如罪に問われ、庄内藩主酒井忠勝に預けられた。
そのため、忠広には庄内のうちで丸岡領一万石が与えられた。大滝六兵衛の支配する青竜寺組からも三カ村が丸岡領に編入されたが、その支配は庄内藩に委ねられたので、その三カ村の支配は引き続き大滝六兵衛が担当した。
承応二年(一六五三)閏六月に忠広が死去した際、幕府の検使への届けも大滝六兵衛らの名前で提出した(『大泉紀年』上巻)。
それより先、寛永十五年(一六三八)に大肝煎の伜たちに一律に知行百石が与えられたので、六兵衛の伜藤兵衛は知行百石となった(同前)。
大滝六兵衛は寛永八年より寛文九年(一六六九)まで三十八カ年も大肝煎を勤め、その後も伜の藤兵衛改め六兵衛が勤めた。
なお、六兵衛は六郎兵衛と書かれることもしばしばであり、寛文五年頃の「庄内高帳」(鶴岡市郷土資料館)にも青竜寺組大庄屋大滝六郎兵衛とある。天和二年(一六八二)酒井忠真が四代藩主に就任した折、大肝煎たちが鰹節十連を祝儀として献じたが、その目録に大滝六郎兵衛の名前がある。
元禄三年(一六九〇)正月の「年始御規式帳写」(『 肋編』上巻)には、
組付大肝煎御知行取
大滝六兵衛
とあり、高百石という知行取の大肝煎だったので、家中たちと同じように家中組に所属していたのである。元禄十年四月の「御改武者組名前御帳写」(同前)では、組頭安藤半左衛門の組には、家中たちのほかに、
外大庄屋
青竜寺 大滝六郎兵衛
大川新右衛門
と、二人の大庄屋も所属していた。なお、大川新右衛門は横山組の大庄屋とみられる。
享保五年(一七二〇)「拝借仕候金子事」(「古来大肝煎勤方覚帳」、『 肋編』上巻)に、
高八十石
一同(金)弐両壱歩
銀十三匁九分四厘
大滝六郎兵衛
とあり、その間知行が百石から八十石に減じていた。
元文元年(一七三六)十一月の「御郡中大庄屋御目見江列座御定書横折」(清川・斎藤家文書、郷土資料館)に、
同(高)八拾石
大滝六郎兵衛 病死
友八と相成
とある。大滝六兵衛の孫長作は貞享三年(一六八六)に大肝煎を勤めたが、元禄十四年(一七〇一)五月に死去したので(「大滝氏家譜」郷土資料館)、それ以後に登場する大滝六郎兵衛は長作の後の当主とみられ、この六郎兵衛の時に知行二十石を減じられたとみられる。養子であるとか、何か事情があったのであろうか。
ところで、延享三年(一七四六)に
島組大庄屋 大滝友八
(「御巡見万控」)
と、その頃大滝家は島組(鶴岡市神明町など)に移っていて、その当時の当主は友八であった。
安永元年(一七七二)に七代藩主酒井忠徳が初めて庄内に帰ったので、同年十一月二十五日に城内の八間廊下で大庄屋たちに料理が与えられた。大滝長作の名前もある。当時の当主は長作であった。
忠徳は翌二年四月二十五日に羽黒山参詣の予定であったが、五月八日に変更された。その際、大庄屋たちも途中道々に詰めるように命じられたが、大滝長作は他の二名の大庄屋と共に、赤川の東側に詰めた(中川通大庄屋仲間「年代記」郷土資料館コピー)。
安永八年九月作成の「黒川村手洗沢見取田検地絵図証文」には大滝長作が大庄屋として加判していたので(桜井昭男『黒川村春日神社文書』)、大滝長作は黒川組(鶴岡市櫛引地域)の大庄屋に異動していたのでる。
寛政五年(一七九三)六月頃、
黒川村大庄屋
大滝彦兵衛
と、この間大滝家に代替わりがあった(佐々木勝夫「『農魂黒川能の里』遠藤家所蔵文書を読む」、『荘内日報』二〇二〇年九月一二日)。
(註)貞享3年(1686)当時の大滝家の家族(『 肋編』上巻)
2022年2月1日号
日向家六代の孫右衛門は天明元年(一七八一)に庄内藩の預地となっていた庄内・由利天領を担当する預地方となって、江戸へ登った。
同二年に交代して鶴ヶ岡に戻ったところ、御徒格とされた。少し身分が上昇したことになる。
同三年に「石代等之伺方よろしく、万事出精」であると、幕府・勘定所より称誉されて金百疋を与えられた。
同五年勤方出精につき役料二石が与えられたので、本来の切米高と合わせて高十石二人扶持となった。天明七年三月に病死した。
七代当主は鉄治であり、間もなく孫右衛門と改名した。切米高八石二人扶持を相続した。
数年精勤したので、文化二年(一八〇五)に役料一石を与えられて、切米高と合わせ九石高となった。
翌三年、初めて鶴ヶ岡へ帰った新藩主酒井忠器の御供の一人を勤めた。しかし、同四年病死した。
孫右衛門に男子がいなかったので、遊佐郷納方手代渡会甚助の弟孫助を聟養子とした。その孫助が八代当主となって、切米高八石二人扶持を相続した。
早くも文化八年に病身となって奉公ができないので、中間小頭井上文四郎の二男孫右衛門を養子とした。切米高は七石二人扶持であった。養子だったので高一石を減らされたものか。
四年後の文化十二年のこと、家族が睦まじく中風の祖母に孝行したとして、金一両が与えられたという。
その後「勤仕録」など先祖勤書には、二十年近くについて何の記述もない。その間もつつがなく勤務していたのであろう。
天保五年(一八三四)の時点で、日向家に男子はいても幼年のうえ柔弱であるとして、娘に同じ組外井上定兵衛の四男庄之助を婿養子とした。
天保八年、忠器の上京御用につき出精したとして、銀二両を与えられた。
天保十四年に御家中・御手廻貸方諸役所金を統合することになり、その取り扱いを命じられた。
弘化三年(一八四六)御徒目付次席となった。
ところが、嘉永四年(一八五一)に不調法のことがあり、慎を命じられたものの、翌年帰役となった。
日向家は藩に才覚金を融通していたが、藩が財政難のためとして、二分利下げを命じられて了承した。
同六年十二月に海防のための入用が莫太にのぼるので、金五百両を寸志として差し上げた。翌安政元年(一八五四)に称誉として役料一石が本石に直されたうえ、外に二石が加えられ、合わせて十石三人扶持となり徒組となった。
同じ年、貸金七百三十四両の返済を求めず、寸志願いをし、六月に差し上げた。家臣なのに多額の金子を寸志として差し上げることが可能な家は何軒もなかったはずである。称誉として七人扶持を加えられ、切米高十石十人扶持となった。
同年九月、孫右衛門は老齢として養子庄之助が十代当主として相続した。
庄之助は相続する前の天保十年(一八三九)三月に、十日町(本町二丁目)より発生した大火事に際し、特別の働きをしたという。
そのためか、同十二年から先納米より年々七俵ずつを与えられることになった。
弘化二年(一八四五)と思われるが、当主孫右衛門とは別に二人扶持を与えられることになった。
嘉永二年(一八四九)御買物方下役となり、年々米二俵ずつ与えられた。翌年米二俵に代えて役料一石に直され、外に増役料一石を与えられ七石高となった。
安政元年(一八五四)正月、前述のように当主孫右衛門が徒組となった。
同年、伜庄之助がようやく相続した。
以後、「勤仕録」などには記述がないが、明治初年まで日向家は組外のままだったはずであるし、その後は事業家として活躍した(『新編庄内人名辞典』)。