サンプルホーム

人物でたどる鶴岡の歴史

【本間勝喜氏略歴】
昭和37年 鶴岡南高校卒業
昭和41年 慶応義塾大学卒業
昭和49年 東京教育大学大学院退学
昭和61年 明治大学大学院修了、山梨県大月市立大月短期大学講師、羽黒高校講師を歴任。
現在、鶴岡市史編纂委員。

2021年12月1日号

【第133回 裕福だった下級役人の日向家(中)】

 日向家の初代は三左衛門と称し、最上家に仕えていたが、その後浪人となる。
 浪人となって狩川村(庄内町)に居住していたが、寛永十八年(一六四一)に庄内藩の組外に召し出され、切米六石二人扶持を与えられた。
 三左衛門には男子がなかったので、弟の日向甚五右衛門を養子にした。
 二代甚五右衛門は明暦二年(一六五六)正月に相続した。切米高はやはり六石二人扶持であった。
 甚五右衛門は延宝二年(一六七四)に江戸扶持方役を命じられ、同六年まで勤めたが、その間は御切米金五両三人扶持方となり、明らかに増収となった。
 江戸に五カ年ほどあったが、組外は江戸・大坂など遠国勤めとならない限り、長く同じ仕事をすることは珍しく、大体は一年交代で種々の役目を勤めるのが普通であった。
 延宝四年、二男の日向佐五兵衛が組外に召し出され、切米六石二人扶持を与えられ、別家となった。このような形で段々組外が増員していったのであろう。
 二代甚五右衛門は元禄十三年(一七〇〇)に不調法の儀があって召し放された。同十六年まで牢人をし、その後帰参した。もとのごとく六石二人扶持を与えられた。
 三代が日向甚五兵衛であり、甚五右衛門の嫡子であった。元禄十年組外に召し出され、切米六石二人扶持が与えられた。
 親甚五右衛門が不調法ということで元禄十三年に召し放されていたが、甚五兵衛はその頃、大坂御米払い下げ役として大坂にいたので許された。
 宝永二年(一七〇五)に役料二石が与えられ、合わせて八石高となった。
 宝永四年三月より九月まで飛島澗役を勤めた。加茂湊に来た船や船乗りより取り立てるものであった。
 正徳五年(一七一五)に郡代の出府に従って江戸に行ったが、病気になり、翌年七月に交代した。享保元年(一七一六)十二月に病死した。
 四代が日向孫右衛門であり、享保二年二月に相続したが、その際、役料二石を返上したので、切米高六石二人扶持であった。
 同人は元文六年(一七三六)に大坂御米払い下げ役となって大坂に行き、翌年四月に交代した。そして寛保二年(一七四二)九月に病死した。
 孫右衛門に実子がなく、甥の日向甚五兵衛が跡目相続した。同人が五代として寛保二年十一月に六石二人扶持を相続した。
 同人は延享二年(一七四五)より諸給人拝借延御差紙並書役方となり、宝暦四年(一七五四)まで十カ年も勤めた。異例の長期といってよいであろう。
 下級家臣の拝借金の返済猶予に係わる役目とみられる。
 宝暦五年春に小物成役となった。雑税である小物成の徴収に係わる役目であった。
 甚五兵衛は八月下旬より病気となった。二年後の宝暦七年九月に病死した。
 六代が日向孫右衛門で宝暦七年(一七五七)に跡式相続し、六石二扶持を継いだ。
 孫右衛門は翌八年に荒町口穀止を勤めた。農民が年貢皆済以前に米を販売するのを阻止するためであった。  宝暦九年に御貸米方下役となり四カ年勤めた。
 宝暦十一年四月に幕府巡見使が来庄したので、孫右衛門は温海村、吹浦村、鶴岡の三カ所に巡見使が宿泊するので、右三カ所の宿泊用の買物方諸品請払役を勤めた。
 巡見使たちは、庄内ではその三カ所に宿泊したのであろう。宿泊しても不自由のないように、食料などを買い調えたものとみられる。
 孫右衛門は、翌宝暦十二年に飛島澗役を勤めた。
 宝暦十三年(一七六三)に、孫右衛門は藩主忠寄の世子忠温が部屋住の時であり、その御買物方下役となり、役料一石が与えられ、合わせて七石二人扶持となった。
 明和七年(一七七〇)には、孫右衛門は江戸詰めとなっていたようで、江戸精勤したとして、増役料一石を与えられたので、合わせて高八石二人扶持となった。
 安永元年(一七七二)六月に、藩主として初めて国入りする酒井忠徳の御供で庄内に下った。
 同年、与えられていた役料二石のうち一石が本石とされた。役料を含まないでも、高七石二人扶持となったのである。
 さらに、安永七年に残り役料一石も本石となったので、役料は消滅して、孫右衛門の切米高は八石二人扶持となったのである。

2021年10月1日号

【第132回 裕福だった下級役人の日向家(上)】

 江戸時代後半、代々「組外(くみはずれ)」という下級役人である日向家が、内川の近くの鳥居河原(鳥居町)に住んでいた。
 組外は、足軽と大体同じぐらいの格であり、与えられる切米・扶持米も六石二人扶持程度であるので、足軽と変わらなかった。
 組外といった場合、家中などでも使用されることがあった。知行取である家中の多くは、重臣である組頭を長とする家中組に属したが、中には役職などの関係から家中組に属さない場合もあり、それを時に「組はずれ」と称することがあったが、人数も限られるなどから、家中においては特別の役職を指すものとはならなかった。  下級藩士の場合、足軽は足軽隊長である物頭のもとに、三十人程度で構成する一つの組に所属するものであった。足軽には江戸時代前半には「一本持」などの労役が課されたりもしたが、主たる任務は戦などに備えて、弓・槍・鉄砲などを訓練することであった。
 組外の者たちも、もとは足軽隊に所属したと推測されるが、戦がない時代に入り、藩政が軍事から民政の方に重点が移ると、足軽の一部の者が軍事に従事せず、藩政に関わる諸種の仕事を担当するようになった。そのため、それらの者は足軽組に所属しない者の意味で「組外」と呼ばれ、いつしか下級役人の役職としての名称として定着したものと推測される。
 組外の仕事は大体家中の者が勤める役職の下役人であったので、実務は組外の者が担当した。  因みに、正保四年(一六四七)二月の「扶持方取人数之覚」(『大泉紀年』上巻)では、下級藩士である扶持米取の人数を挙げている。
 六拾人    徒之者
 弐拾五人   持筒之者
 千人     足軽
 三百弐拾壱人 諸役人
 百拾人    旗差
 五百拾壱人  中間
  人数弐千弐拾七人
とあるが、右には組外という名称は出ていない。おそらく足軽の中に含まれているのではないかとみられる。
 翌年慶安元年(一六四八)閏正月の「庄内三郡御知行高覚」(同前書)には、支給される扶持米に関して、
 一、米一万一九八六俵
      一斗七升
    人数千八百七拾六人
 是ハ御小姓衆・御鷹匠衆・ 御徒衆・組はつれ・御足軽
 ・御持筒・御旗差・御中間
 ・あらしこ・諸役人御扶持 方に渡ル
とあり、ここでは明確に「組はつれ(外)」も挙げられている。
 組外という下級役人が藩の初期からいたことは、例えば斎藤金右衛門という者は藩主酒井忠勝が庄内に入部する際、清川口に出迎えに出たところ、実際には小国口より入部したので、出迎えに失敗したのであったが、幸い重臣の郡代柴谷武右衛門が清川口から入ったことから、その推薦によって元和八年(一六二二)冬に召し出され、間もなく組外を命じられたという(「斎藤金兵衛先祖書」鶴岡市郷土資料館)。
 なお、江戸時代中頃に起こった足軽たちの一本持騒動に加わった足軽の阿部源兵衛という者の申し立ての一部とみられるが、庄内藩の浪人の召し抱えに関して、
 諸浪人御召抱之砌(みぎり)、
 武功を申立御家中、亦は武 術・算学を申立、御徒・御 組外ニ被召抱候、何も心掛 無之者を御足軽ニ被召抱…  (荒木尚之「順覧附録再考」 巻之六、右同館)
と述べたという。藩士の召し抱えに際し、浪人の者が武功を申し立てた者は家中に、武術や算学を申し立てた者は徒や組外に、何も特段申し立てるものがない者は足軽にと、それぞれ召し抱えられたとする。
 しかし、徒はともかく、組外の待遇は足軽とほぼ同じであり、特に何か特技などが評価されたうえでの召し抱えだったとは思えない。
 ただ、組外は郡代所の直属だったこともあり、他の下級役人に比べて、割合大きな権限を持ちえたこともあって、右のような見方があったものかとも思える。
 因みに、天和元年(一六八一)十月の「庄内ニ而御扶持・御切米取之人数」(『大泉紀年』下巻)によれば、当時組外は五十六人いたが、その後次第に増員したようであり、安永五年(一七七六)には百三十人になっていた(重田鐵矢『荘内史料』)。更に天保七年(一八三六)頃には百八十二人となっていた(「御給人・御用達分限帳)。それだけ藩の種々の業務が増加・拡大し、その分多くの人員を必要としたことによろう。

2021年8月1日号

【第131回 禅中橋と禅中(下の二)】

 寛政十二年(一八〇〇)二月の歩座仲間の「仲買・銭売惣仲間書上げ」にも「嫡子見習」のところに
 荒町 五十嵐吉治
とあり、禅中の二男吉治がなお嫡子見習の立場だったのである。たとえ名目だけだったにせよ、父禅中はまだ隠居することなく、当主として八木屋で商人として暮らしていた。
 町方に住居する町人が出家する場合、自分の一存だけではできなかった。例えば、後年禅中の四男無禅が出家する際も出家願いをしているが、寺の了解を受けて、親族と荒町の長人・肝煎の連印のうえで出願された。町大庄屋を介して町奉行所に提出され、その許可があってようやく出家することができた。
 禅中が出家願いをした場合も同様の手続きが必要であった。
 それらを勘案すると、禅中の出家は享和元年(一八〇一)以降とみられる。従来いわれていたよりも七、八年以上遅かったことになる。
 もちろん、正式に出家する以前にも破鏡庵などに出入りしたりすることは可能であったが、表立った活動は控えられたはずである。
 その後、正式に出家して仲治改め禅中となり、慈善活動などに力を入れ、禅中橋の架設なども行ったのである。  そして、禅中は文政四年(一八二一)九月十六日、八十二歳で入寂した。当時としては高齢であった。二男吉治が跡を続き仲治を襲名した。
 同年十月六日に四男無禅(菊治郎)が前述のように出家願いをした。そこでは、
 荒町仲治弟義治郎当巳三十 五歳、実父禅中僧病死ニ
 付、先祖並に右禅中僧菩提 のため出家を遂げたく…
  (『鶴ヶ岡大庄屋宇治家文   書』下巻)
と記し、荒町の仲治弟義治郎(正しくは菊治郎)は三十五歳であるが、実父禅中が病死したので、先祖及び父禅中の菩提を弔いたいとして出家願いをしたとする。
 ここで確認しておきたいのは、父禅中が病死し無禅(菊治郎)が出家願いした文政四年十月の時点では、荒町八木屋の当主は二男吉治改め仲治だったのである。その頃は長男茂平(茂兵衛)は下肴町に住んでいた。
 しかし、程なく八木屋で当主の交代があった。二男吉治改め仲治が家を出て、代わって長男茂兵衛が家に戻ったのである。
 前に戻るが、文化六年(一八〇九)十月の時点で、歩座仲間の記録に「休息之者」として「五十嵐吉治」の名前がある。同九年三月にも同様の記載がある(歩座仲間「永代米商掟」)。
 つまり、文化年間に八木屋は少なくとも数年に及んで米・米札仲買の仕事は休業していたとみられる。歩座の仲買の仕事があまりうまくいっていなかったのである。吉治は米取引などにあまり向いていなかったのであろう。
 それでも、父禅中は長年自分と一緒に力を合わせて八木屋を守り立ててきた吉治をあくまで八木屋の当主として守っていこうとしたと思われる。しかし禅中の妻亀方は長男茂兵衛を家に戻したいと望んでいたとみられ、禅中の生前からそのことで考えの違いがあったのではなかろうか。結局禅中の病死を契機に、当主の交代が実現したものと推測される。  茂兵衛が八木屋に戻って当主になると、同家の系図なども書き改められることになった。何の注釈もなしに、八代当主茂兵衛とし、二男吉治改め仲治が「別家」したとし、あたかも当初から別家していたような記述となった。
 しかし、系図にも二男仲治と記載されているように、父禅中(仲治)の名前を襲名し、しばらく八木屋の当主であったのは二男吉治であったことは明らかである。吉治改め仲治がどこに別家したかは記載がなく、不明である。おそらく「平和的」な当主交代ではなかったのであろう。八木屋とのつながりもなくなり、絶縁状態であったものか。引き続き鶴岡には住んでいたとみられる。
 「五十嵐家系譜」(八木屋文書)では、八代当主となった茂兵衛正知は天保三年(一八三二)十月に六十一歳で亡くなった。妻は松山本町の油屋高田屋嘉兵衛家の出であった。男子はいなかったようで、養子となって九代茂兵衛と名乗ったのは妻の甥であり、やはり松山の高田屋の出であった。九代茂兵衛は以前十四歳で見習いとして一年ほど八木屋で働いたことがあったという。
 禅中の四男菊治郎も出家して無禅となり、破鏡庵を継ぎ、父同様に慈善活動に努めた(『新編庄内人名辞典』)。
 天保八年(一八三七)九月、八代藩主忠器が京に使いで上った際、八木屋は「銭屋茂兵衛」の名前で金六両二歩を提供した。八木屋が御用金を提供するのは、その時が初めてのこととみられる。
 天保十二年十二月の時点で五十嵐家は歩座方定年番となっていたし、同十四年八月には荒町の長人役となった。
 八木屋は九代当主茂兵衛の時に商売も発展し、荒町を代表する商家となったのである。 (終)

2021年6月1日号

【第130回 禅中橋と禅中(下)】

 五十嵐仲治(禅中)が多額の損失を出したことにより、家業を長男茂兵衛に譲ったといわれているが、その年代を『鶴岡市史』(上巻)では寛政四、五年頃としているし、『新編庄内人名辞典』では、明確に寛政四年(一七九二)と記している。
 しかし、鶴岡米穀取引所『永代米商控』によれば、寛政五年八月の時点で、
 荒町 病気休息罷在候
       五十嵐仲治
とあり、翌六年十月にも同様の記載がある。
 そして、寛政七年九月の「米札謀札一件」では、中川角兵衛という家臣の扶持米札四俵を荒町目早仲治の伜政次郎が買い取ったが、その米札が偽札だったことが判明したことから、同年十二月二十五日に米札の代金の金一両三歩余を目早仲治が山浜代官所に納めることになった(『鶴ヶ岡大庄屋宇治家文書』上巻)。
 つまり、仲治は病気ということで休息していて、代わって伜政次郎が米札の売買に携わっていたものの、仲治はあくまで一時的に休息していた形であり、引き続き五十嵐家の当主の立場であり、社会的にもそのように扱われていた。すなわち、まだ正式に隠居したわけではなく、当然出家したわけではなかったのである。
 正式に隠居するのは、寛政八年(一七九六)以降ということになろう。
 また、仲治が隠居し、家業を長男茂兵衛に譲ったと当然のごとく諸書に記されているが、休息中の仲治に代わって米札の売買を行っていたのは茂兵衛ではなく、政次郎であった。
 「荒町・八木屋五十嵐家系図」(鶴岡市郷土資料館コピー)によれば、仲治(禅中)には五人(四男一女)の子供があった。長男が義雲(茂兵衛)、二男が吉治で別家したという。三番目が女で十日町瀬戸やへ嫁した。三男が定番組茂木杣右衛門の養子となり、後に茂木家を継いだ。四男が菊次郎であり、初め大山へ婿養子に行くが、その後離縁となったとする。右の系図には政次郎という名前は見当たらない。
 『新編庄内人名辞典』では長男茂兵衛は幼少の時に江戸に行き商家に奉公した。いろいろ工夫をしたことで、主人に嘱望されて資金援助を受けて鶴岡に戻って銭屋(両替商)を開いたが、父仲治が家業に失敗すると家を継いだとする。
 前にも記したが、銭屋は両替もやったかもしれないものの、主として歩座(米取引所)で米(札)の仲買を行ったのである。そうすると、父仲治(禅中)と同業となるが、政次郎との関係はどうなるのであろうか。
 ともかく、茂兵衛が仲治の後を継いだとすれば、仲買のメンバーとしてその名前があるはずであるが、メンバー名が判明する寛政五年八月にも同六年十月にも茂兵衛の名前はない。
 注目すべきは、寛政十二年(一八〇〇)二月の正式メンバー以外の「嫡子見習」の中に
  荒町 五十嵐吉治
の名前があることである。先の「系図」によれば、吉治は別家(分家)したとあったが、父仲治に代わって米(札)売買に従事したのは二男の吉治だったのである。「休息中」の仲治に代わって米(札)売買をしていた政次郎とは二男の吉治のことであったと考えられる。
 なお、吉治は「嫡子見習」の立場であり、従って寛政十二年二月の時点でも仲治は当主のままで、隠居していなかったとも考えられる。仲治が出家するのは通常いわれているよりもかなり後のことだった可能性がある。  長男茂兵衛が鶴岡に戻ったのがいつかは不明であるが、すぐに荒町の家に戻り家業を継いだのではなかったのである。
 前回、史料としてあげた文政三年(一八二〇)六月「鶴岡荒町戸籍人別帳」では、当主は仲治であった。もちろん禅中のことでなく、二代仲治のことである。そして、同居人として仲治の弟菊次郎がいた。同人は一旦大山へ養子に行ったが戻り、荒町の家に同居していたのである。
 ところで、その菊次郎のところに次のような記載がある。
  右菊次郎、八間町茂兵衛  方へ当時無人ニ付、用心  のため罷越戻申候
 つまり、八間町(本町一丁目)の茂兵衛宅が無人なので、用心のため菊次郎がそちらで暮らしていたが、すでに荒町の家に戻っているというのである。
 長男の茂兵衛(与市)は当時荒町の家を継いでおらず、八間町に住居していたのであり、そこで別に銭売りの権利を譲り受けて米(札)の売買をしていたのであったが、あまり商売が順調でなかったのか、長期自宅を留守にしていたのであった。
 右に挙げた「戸籍人別帳」は文政三年のものであり、初代仲治(禅中)の亡くなる前年に当たったのである。父仲治が亡くなるまで、長男茂兵衛は荒町の家には戻っていなかったのである。

2021年4月1日号

【第129回 禅中橋と禅中(中)】

 内川に禅中橋を架けた禅中の実家は荒町(山王町)の町人五十嵐茂兵衛家であった。  五十嵐家はもともと最上家に仕えていて、寛永年間(一六二四〜四四)に鶴ヶ岡に来て荒町に住まいしたという(清野鐵臣「無源禅仲和尚に就きて研究」)。
 禅中は出家以前は仲治といい、五十嵐家の七代目であった。同人は、文政四年(一八二一)九月に八十二歳で没したので、逆算すると元文五年(一七四〇)の生まれかと推定される。
 禅中(仲治)は二十代頃のことであろうか、妻帯して二男三女をもうけた。四男一女と記すものもある。いずれが正しいものか。
 五十嵐家の商売を屋号が八木屋と称した点からも『鶴岡市史』(上巻)などでは、米商であったとしている。八木は米のことである。
 元禄九年(一六九六)の「鶴岡城下大絵図」には、五十嵐家の名前は表通りには見出せないようである。ただ、虫喰いのためか名前の不明な家もあるので断定はできないが、江戸時代中頃以降に出た家であったとみるべきであろうか。  ところで、前出のように江戸時代の八木屋というと米商と思いがちであるが、斎藤治兵衛「禅中橋の由来」(鶴岡市郷土資料館)では瀬戸物屋とする。清野鐵臣も前出の小稿で「伝来の陶器商の外、銭屋を営み」と記していて、本業を陶器商(瀬戸物屋)とし、合わせて銭屋として米の商いも行ったとしている。  江戸時代の鶴ヶ岡では、何か一種類の品物を商うのではなく、複数の商品などを取り扱うのが一般的だったようである。  『鶴岡市史』(上巻)では、両替屋(銭屋)と記していて、銭屋は両替屋のことのように思えるが、おそらく両替屋を営む銭屋は少なかったのではなかろうか。なぜ銭屋と称したのかは不明であるが、銭屋は両替屋ではなかったとみるべきではなかろうか。
 鶴岡では、いつ頃からか目早(仲買)二十五人を許して、歩座(米相場所)で米(米札)の売買を行わせたが、延享二年(一七四五)になって、右の二十五人の仲買の外、銭屋二十五人にも米の仲買を許した。米取引の一層の発展をめざしたのである。
 米取引に関わった銭屋は本業が別にあるが、一層の利益の獲得を期待して米(米札)の売買にも従事したのであろう。  五十嵐家がいつの時代から米の売買に関わるようになったかは不明であるが、天明五年(一七八五)十二月の時点で歩座仲間は、仲買と銭売の別があったが、五十嵐仲治(禅中)は銭売の方に書き上げられていた(明和八年霜月『永代米商掟』株式会社鶴岡米穀取引所)。
 この場合の銭売とは銭屋のこととみられる。
 ともかく、十八世紀末の五十嵐家は七代目の仲治(禅中)の代であり、本業の瀬戸物屋の外に米の商いにも従事していたことが確認できる。
 寛政二年(一七九〇)には、五十嵐仲治は歩座年番を務めていた。年番と称するように、一年交代で二名ずつ務めるものであり、御米宿との連絡とか、メンバーの世話役のようなものであったとみられる。ある程度長期にわたって歩座に関わる家が務めたものではなかろうか。
 『鶴岡市史』(上巻)では、仲治が寛政四、五年頃に大きな損失を出してしまい、家業を長男茂兵衛に譲り、自身は八日町(陽光町)総穏寺の弟子となったが、すでに五十三歳の初老であったとする。
 右の損失については、禅中について一番詳しく論じている阿部幸二氏の「禅中橋と破鏡庵」(庄内歴史懇談会『歴懇論集』創刊号)では、天明の大飢饉に際し、「家業の存続を揺るがすほどの米を提供したこと」によると推定し、寛政四、五年頃までに出した大きな損失を飢民などを救済するための慈善行為により生じたものとみている。
 後年の事績をみれば、慈善活動に多額の米金を提供するということも大いにあり得たことであろう。
 しかし、五十嵐家が米(米札)の売買をしていたことにも留意したい。仲治は単に店で米の商いをしていたのではなく、歩座の取引を行ったが、歩座は投機的な要素が多分にあった。
 仲治は自ら進んでは米の投機を行わなかったかもしれないが、やむを得ず投機の場に巻き込まれたことも考えられる。  場合によっては、僧全栄など破鏡庵を中心とした慈善活動を資金援助すべく、自ら進んで米(米札)の投機に手を出し大損したということも考えられないわけではない。
 なお、齢五十三歳で出家となったとすると、元文五年(一七四〇)生まれとみれば、その年は寛政四年(一七九二)ということになろう。

2021年2月1日号

【第128回 禅中橋と禅中(上)】

 城下鶴ヶ岡を貫流する内川に、江戸時代初期までに最上・山形、庄内の両藩の手で五つの橋が架けられた。上流から七日町橋(神楽橋)、十日町橋(鶴園橋)、三日町橋(三雪橋)、五日町橋(千歳橋)、荒町橋(大泉橋)の五つである。
 ところが、寛文十二年(一六七二)に住民から、更に二つの橋を求める要望が出された。
 一つは筬(おさ)橋である。桧物町(三光町)で七日町橋の上手に橋を架けたいというのである。南郊小真木村(日枝など)の下方に、粗末なものでも構わないので、人が通行できる橋を架けてほしいとし、材木が下付されれば、自分たちで人足を出して架けたいと嘆願した。
 藩の重要な政務を処理する会所で、四月初めに鶴岡町奉行がその件を披露したが、家老たちは内川は城の要害としての役割があり、新しい橋を架すのは不可と許可しなかった。
 桧物町では、それでも諦めず、二度三度と嘆願したところ、七月になって許可となった(『鶴ヶ岡大庄屋川上記』上巻)。そのようにして筬橋ができたのであった。
 筬橋は江戸時代を通じて何度も架け直されたが、桧物町ではその費用を得るため、しばしば見世物を催した。
 同じ年の二月、内川下流に位置する鳥井河原(鳥居町)に七十軒ほどの御徒たちの屋敷割が行われた。通行の便のため鳥井河原の方から三日町末(昭和町)の方に橋を架けたいと嘆願したが、三月の会所で「御要害ノ障りニ相成候」と、筬橋の場合と同様の理由で許可されなかった。ただ、桧物町とは異なって、それきり架橋を断念したのであった。
 そのため、通行不便の状態がしばらく続いたが、元禄十六年(一七〇三)十月に至って、くり舟による渡しが許された。銭一文を払って舟で対岸に渡してもらうのである。
 その後、いつの頃からか「半橋繋船」というように、南岸から川の半ばまで板の橋を架け、北側には舟を繋いでいて、川の中程で橋から舟に移る形であった。舟の往き来の妨害にならないためであった。  しかし、冬などには老幼などの者はもちろん、壮年の者でも踏み外して水中に転落するなど、事故が多かった。
 そして、十九世紀の文政年間に至って、本格的な橋の架設が許された。ただ、その竣工年については文政三年(一八二〇)説と同十一年説の二つがある。
 まず『鶴岡市史(上巻)』では文政三年のこととする。禅中という奇特な僧が一文渡しの不便を救わんとの一念から托鉢を行い、資金を貯え、文政三年七月に藩に架橋を願い出て許可され、同年十月十日に竣工、渡り初めが行われた。そして、禅中の功労を讃え禅中橋と名付けられた。この『鶴岡市史(上巻)』の記述が現在通説となっている。
 それに対し、鳥居町住まいであった日向家が持っていた「禅中橋由来記」(鶴岡市郷土資料館日向家文書)では、一文渡しの危険性を問題視した、下級藩士とみられる彦坂勝蔵という者が橋を架すことを禅中に提案し、そこで禅中は破鏡庵に毎月参会する人々と諮って、橋を架すための方法を考え、藩に願って許され、文政十一年(一八二八)に竣工したとする。ここでは橋のことを提案したのは彦坂という人物ということになる。
 斎藤治兵衛「禅中橋」(「玄々堂叢書」壱、郷土資料館)では、おそらく「禅中橋由来記」などを読んでいたことでのことと思われるが「文政十一子年橋成りて禅中橋といふ」というように、やはり文政十一年竣工と記している。
 文政十一年竣工とすれば、禅中は文政四年九月十六日に死去しているので(『新編庄内人名辞典』)、同人は禅中橋の竣工を見ていないことになる。当然「禅中より奉願ること」はもちろん、藩の許可もされておらず、工事も始められていないことになろう。禅中の寄与は限定的となる。
 文政十一年の竣工とした場合、少々説明できない史料が二、三ある。
 一つだけ挙げれば、次のような預かり証文である。
  預申金子之事
一金拾五両  小判
  但、利足年中五分利、期月十月より九月まで
 右ハ禅中橋掛直之節入用備 金、先納方江預申処実正ニ  御座候、元金ハ永預り置、利足之 儀ハ年々利を加へ 置、追て橋懸直之節、右合 利金相渡申候…
  文政三年辰十月
        先納役人(四人)
  破鏡庵主 添判
  宇治勘助殿 (郡代四人)
  河上四郎右衛門殿
(「大秘行司録」郷土資料館)
 橋を架け直すための備金を藩の先納方に預けたものである。
 文政十一年の竣工とすれば、同三年は架橋のための資金を募っている時であろう。それなのに「掛直し」の時の「入用備金」を早々と準備し、藩の役人に預けるものであろうか。