サンプルホーム

人物でたどる鶴岡の歴史

【本間勝喜氏略歴】
昭和37年 鶴岡南高校卒業
昭和41年 慶応義塾大学卒業
昭和49年 東京教育大学大学院退学
昭和61年 明治大学大学院修了、山梨県大月市立大月短期大学講師、羽黒高校講師を歴任。
現在、鶴岡市史編纂委員。

2020年12月1日号

【第127回 有力な造酒屋だった三日町平田太郎右衛門家(五)】

 文久二年(一八六二)十一月、平田太次右衛門は御町用金などの安定のために仕法金百両の提供を命じられたうえ、御町用金元立掛かりを命じられた。平田家のような裕福な町人の支援で安定的に運用できるようにということとみられる。
 それに伴い翌三年九月に「大庄屋席家・御用達」とされ、町奉行の直支配となった。家格が大庄屋並みとされたのである。
 それより先、同年二月十七日に藩より御用金を命じられた。本来は金六十八両のはずであったが、平田家が右のように御町御用金元立取調掛かりになったとして金五十三両に減額された。
 ところが、二日後の二月十九日には別に、才覚金五百両の提供を命じられたし、三月と九月の二度で納入することを命じられた。  同じ年十月、大殿忠発夫人らが庄内に来て住まいすることになって、その住居を建設するため、進んで寸志として金五百両を差し上げた。十二月に五人扶持が加えられて、合わせて五十五人扶持となった。
 平田家では、十年前から荒井和水(伝右衛門)の開設した心学道場の鶴鳴舎に対し、年々米八俵ずつ支援してきたが、元治元年(一八六四)三月、そのことで称誉された。
 平田家では以前提供していた二口の才覚金、合わせて千五百両について、慶応元年(一八六五)六月に、寸志として差し上げることにした。それに対し、八月になって十五人扶持を加えられて、合わせて七十人扶持となった。
 慶応二年四月、金三千両の才覚金が命じられた。これは、藩が大坂で借りた金の返済期限が迫ったためであり、返済が済めば、以後庄内から大坂へ送る廻米も減り、庄内で売り払う年貢米が多くなると説明していた。地元商人の利益になるというのであろうか。
 同年十月、三日町の難渋者への救米二十俵を提供したし、米十俵の分として金三十一両三歩を曲師町・銀町の難渋者に提供した。翌三年には鶴岡町民全体を対象に救米三十俵を提供した。
 同年春には米価高騰したので、町方の難渋者が困っているとして一町切に救座を設けて救米金を提供したとして称誉された。
 慶応四年二月、容易ならない時体となり、国恩のためとして金千両を寸志差し上げた。三月に五人扶持を加えられた。
 同年六月、町奉行所より町々での小銃調練が命じられた。同八月、所々に出兵しているとして、茄子漬け一万粒、大根漬け五樽を寸志に差し上げ、八月二十一日に人足により吹浦に輸送したが、さらに秋田戦線に送られることになった。平田家の二男安太郎は「銃兵御組立中」に二人扶持が与えられた。町兵の訓練の先導役を務めるものであろうか。
 敗戦後の明治元年(慶応四年)十一月頃、また寸志金五百両を提供した。これまでの関係を維持しようとしたのである。また二人扶持を加えられた。
 翌二年正月、会津への転封を命じられたので、寸志金千五百両を提供することにした。ところが、六月に若松に代えて磐城平への転封となったが、平田家は七月にも寸志金五百両を差し上げた。
 平田家では、同年春に転封への御供願いをしていたが、七月に当主太次右衛門は老年のうえ、近年多病であるとして、自分に代えて伜太七郎を御供させたいと願い出た。
 そして、八月に改めて、引き移りの用途へということで金七千両を寸志金として差し出すことにした。ただ、当時手持ちは三千両、残り四千両は翌三年から五カ年での分割上納となった。転封の中止にもかかわらず納入された。
 その場合、明治四年の廃藩置県で大泉藩(庄内藩)も消滅し、その後は酒田県(第二次)となったわけであるが、寸志金の残額は酒田県に納入されたものであろうか。
 前述のように、平田家は文久二年十一月に御町御用金元立掛かりであったが、戊辰戦争と敗戦もあり、御用金元立は消滅直前であったが、明治四年六月になって立て直すことになった。平田家では元立金に年に金十五両ずつ五カ年寸志に提供することにした。
 先の年賦上納分とは別に、明治四年八月に寸志金千両を差し上げることにして三カ年ほどで上納し、称誉として「御流頂戴格家」となり、郡代支配とされた。藩政時代が続いていたかのようである。
 ところが、平田家はそれまで七十七人扶持となっていたが、明治五年二月に三分の一の二十五人六分六厘に減らされた。
 平田家では扶持米の支給を当てにしてはいなかったであろうが、不満だったのではなかろうか。御使者宿の役目も消滅していたはずである。それらを契機に同家では、新しい行き方をとろうとしていたのではないかと思われ、その第一歩が明治七年三月の質屋免許鑑札の取得ではなかろうかと思われる。 (終)

2020年10月1日号

【第126回 有力な造酒屋だった三日町平田太郎右衛門家(四)】

 庄内藩酒井家の長岡移封が中止になったので、平田家では天保十四年(一八四三)三月になって金二百両を寸志として差し上げた。それに対し、三幅対の掛け物が与えられた。
 移封中止の報復として庄内藩は同年下総国(千葉県)印旛沼普請を命じられたが、その際、平田家には御用金六十両を命じられたので、三カ年に分割して納入した。
 現在、昭和通りで営業する「蔵屋敷ルナ」は、もとは造酒屋であった平田家の酒蔵であり、弘化四年(一八四七)に建てられたものである。
 江戸時代後半になると、天領大山村の酒造業が発展し、鶴岡の造酒家は圧倒され、全く振るわなくなっていたと考えていたが、初めてルナに行き、柱の太さをはじめ建物の堅牢さを見て驚いたものであった。幕末頃の鶴岡の酒造屋も大きな経済力を有していたことに改めて気付かされたのである。  さて、嘉永二年(一八四九)春に、藩主忠発(ただあき)が京へ使いに出向いたが、前年に平田家は御用金四十九両二朱を命じられたが、別に寸志金五百両を差し出した。それに対し、同三年に三人扶持が加えられ、合わせて二十人扶持となり、かつ帯刀御免となった。
 嘉永七年三月、海防などで藩の出費が多いと聞いているとして、平田家では寸志金を差し出したいと願い出た。ただし、これまで何回かで差し出した才覚金千二百両と別に寸志金三百両を加えるということであったが許可された。そのため十五人扶持が加えられ三十五人扶持となった。
 同年閏七月に大洪水となり、浸水家屋は町家だけで千九百九十四軒に及んだ(『荘内史年表』、「編年私記」)。その際、平田家は極難渋の者へ救米を提供したので、奇特として称誉された。
 安政二年(一八五五)四月、伜太七郎(二十四歳)の見習いのため父子勤めを願い出て許可された。
 江戸品川の御台場警衛及び十月の江戸大地震で破損した藩邸修理のためとして、同年十二月才覚金五百両と御用金九十五両を命じられた。それに対し、平田家は才覚金五百両を寸志金として差し出したいと願い出た。才覚金であれば返済することになるが、寸志金であればその必要がないことになる。もちろん許可されたし、春秋の二度で納入することになっていたのに、翌三年三月に二百五十両、残りを六月に上納した。それに対し五人扶持が加えられた。同年の分限者番付「鶴亀松宝来見立」(鶴岡市郷土資料館)では、平田家は小結となっている。
 伜太七郎との父子勤めとなったので、安政四年正月に父子で御目見することを願って聞き届けられた。
 同年八月に町方非常の時の救済の件で藩より話があったので、四人の商人が寸志として金三百両を差し出したが、万一の際の備金とするものであった。四人とは、五日町・田林半九郎(五十両)、同・三井弥惣右衛門(五十両)、同・風間幸右衛門(百両)、平田太次右衛門(百両)であった。それに対し、十二月になり伜太七郎も帯刀御免とされた。
 安政五年の作柄は悪くないのに、夏中より米価が高止まりしたままであり、住民に難渋の者が多いというので、九月に米三十俵を寸志で提供したいと願い出て許可された。
 万延元年(一八六〇)四月十三日、藩校で郡代中より才覚金七百両を申し渡されたし、その翌日に御用金九十両も命じられた。それに対し、平田家では七百両に三百両を加えて、都合千両にして寸志金として差し上げたいと願い出て許可された。ただし、以前才覚金として提供した五百両に、正金五百両を加え合わせて千両ということであった。それに対して十人扶持が加えられたので、合わせて五十人扶持となった。年に玄米で約九十石与えられるのであり、知行二百石の家中の物成に相当しよう。
 同年十二月に米価が高いとして平田家は、三日町に限って極難の者の救済のため米十俵を提供したし、暮れの二十八日は洪水となったので、翌年文久元年(一八六一)正月になって、町方全体の難渋者の救済として米五十俵を提供した。
 同年夏、米価が高いので御備籾を摺って住民に安く米を売るための安売座を平田家が務めたし、秋に入った七月に御救座宿も務めたので、町用金からそれぞれ金三歩と金一歩二朱の手当が与えられた。
 同年には、庄内藩が拝領した蝦夷地で場所請負人になっている松前の栖原半六と伊達精十郎が御礼のため鶴岡に来た折に、藩はそれぞれ料理を与えたが、平田家がその際の宿を務めたとして、翌文久二年三月に金一両が与えられた。栖原半六の時は酒田の廻船問屋柿崎孫兵衛と加茂の廻船問屋秋野与四郎が相伴した。両家は栖原屋と取引があったのであろう

2020年8月1日号

【第125回 有力な造酒屋だった三日町平田太郎右衛門家(三)】

文政四年(一八二一)十一月、藩主酒井忠器(ただかた)が幕府より京都への使者を命じられたので、平田家は寸志として米札五百俵を差し上げた。五日町地主亥蔵(長右衛門家)に次ぐ額である。しかも、別に金四十六両三歩の御用金も課された(「御上洛ニ付御用金町割帳」鶴岡市郷土資料館宇治家文書)。寸志を差し上げた者に翌年、平田家で酒・御吸物が与えられた。翌五年に平田家は一代大庄屋格とされた。
 同七年、蚕桑方へ金三百両を寸志として差し上げたところ、長期にわたり多額の寸志米金を提供したと、称誉として代々大庄屋格・一代帯刀御免のうえ、三人扶持が加えられ十三人扶持となった。平田家では養蚕業に注目していたのであろう。
 同八年八月、惣領九十郎が病死した。代わって三男安吉が嫡子となったようであり、翌九年に安吉との父子勤めが許された。明治に活躍した安吉とは別人で、何代か前の先祖に当たる。
 文政十二年の分限者番付「鶴亀宝来見立」(『鶴岡市史』上巻)では、平田太郎右衛門は西海三郎兵衛と共に行司のところに名前がある。その頃の平田家は鶴岡では上位三家のうちに数えられる富家とみられていたのである。
 天保元年(一八三〇)が凶作で米価が高騰したので、平田家などは町方や郷中の難渋者に救米を提供したが、、翌二年に救米を提供した者に平田家で料理が与えられた。
 同じ年六月に平田家では当主太郎右衛門が病死した。父子勤めだった伜安吉が相続し、八代目太郎右衛門になったと思われる。大庄屋格・御使者宿で十三人扶持を相続した。
 同三年に寸志金二百両を差し上げた。それに対し二人扶持を加えられ十五人扶持となった。十五人扶持は一応玄米で二十七石を与えられるのであり、知行とすればまずは五十石取り程度の家中に相当しよう。
 天保四年は「巳年の飢饉」などと称されて大凶作の年であった。秋から翌年にかけて平田家では飢民に救米などの提供を行うなどの慈善を行ったことであろうが、その頃の三、四カ年、平田家の「先祖勤書」には何も記載がない。
 天保七年当時、平田家は大山領善阿弥村(三川町)に高十四石二斗余の田地を所持していた。すべて田圃とすれば一町一、二反歩ほどの反別であろう。当時の善阿弥村は困窮が著しく亡村にも至るかといわれるような状態にあった。そこで平田家では所持田地を村方に提供し、村方の立て直しをさせようとした。あまり見聞きしないような決断であったといえよう。その頃、大山領など庄内・由利天領は庄内藩が私領同様預地として支配していたので、その善行を賞し、一人扶持を加えたので、合わせて十六人扶持となった。
 同八年九月、藩主忠器が再び幕府の使者として京都に上った。平田家では金二百両を寸志として差し上げることにした。そのため、二人扶持を加えられ十八人扶持となったし、上下地二反も与えられた。因みに、この時の上京の費用は六万七千七百四両という巨額にのぼった(『荘内史年表』)。  新形村井上家「万世見聞相場記」(郷土資料館コピー)では、それに関連して、
 此時御上にて金不足にて国 中へ御才覚金仰付けられ、 平田・金屋・鷲田三家五百 両ツツ
と記していた。平田家のほか、五日町の金屋(風間)幸右衛門、上肴町鷲田長兵衛が才覚金五百両だったとする。平田家「先祖勤書」には記載はないが、寸志金二百両のほか才覚金五百両を命じられていたのである。なお、寸志金は差し上げ切で返済は求めないのであるが、才覚金は藩への貸金である。  同九年、当主太郎右衛門は許可を得て太次右衛門と改名した。同年四月、幕府巡見使黒田五左衛門らが来るので、平田家が宿舎を命じられた。巡見使の派遣はその時が最後となった。十二月に藩の納戸金から金五百疋が与えられた。
 天保十一年十一月、突如命じられた酒井家の長岡転封の件は領民の反対運動などにより、翌年七月に中止となった。平田家では恐悦として寸志金二百両を差し上げた。
 主として庄内領民の反対運動によって酒井家の長岡転封など、いわゆる三方領知替えが中止になったことに対する報復措置の一つとして、長らく庄内藩に許されていた天領の預地支配が同十三年五月に中止を命じられた。代わって、大山領などの天領は幕府代官の支配になった。  以前、困窮が著しい大山領善阿弥村の村立て直しのため、平田家が折角寸志として提供した田地が返却されることになった。そこで、加えられていた一人扶持が取り消されることになって、一人扶持減じて十七人扶持となった。

2020年6月1日号

【第124回 有力な造酒屋だった三日町平田太郎右衛門家(二)】

 元文二年(一七三七)正月に、遊佐郷中に出入りがあったとして、平田太郎右衛門などが藩に呼ばれて、去年中借り受けた米金について、利息は支払うが、元米・元金はそのまま借り置くと命じられた。遊佐郷村々を救済する名目で借り上げた御用金であったものか。遊佐郷村々は十八世紀中頃から疲弊が顕著になっていったようである。しかし、平田家には直接関わりのないことであった。
 平田家はその後も小口の御用金を年々のように求められて応じていたのである。
 寛延三年(一七五〇)一月に死去した当主太郎右衛門は俳号白之という俳人でもあった。羽黒の図司呂丸宅に所持されていた芭蕉の「三日月日記」が江戸の商人に渡って他国に持ち出されようとしたのを、大金をもって買い戻したのが白之であり、そのため「三日月日記」は現在も平田家に伝えられている(『鶴岡市史』上巻)。
 宝暦三年(一七五三)十一月の「三日町軒数御水帳」(鶴岡市郷土資料館宇治家文書)によれば、三日町にある平田家の家屋敷として次のように記されている。
 一、壱軒弐歩五厘
    表口拾三間
    裏行二十五間
   内半軒役
      御使者宿御免
 一、半軒役
    表口七間
    裏行二十五間
 二カ所で合わせて一軒七分五厘であり、かなり広い家屋敷であった。その半軒役が御使者宿として町役が免除されていた。町人にとって租税に相当する町役の負担が三割ほど軽減されていたのである。
 同じ年六月に借上米二千俵を御米宿立会役の七日町疋田多右衛門の名前で差し上げたし、同五年にも六百五十俵の借上米があった。
 同八年には借上米を百五十俵余、二百五十七俵余、二千百五十俵と三回差し上げたし、また借上金三百五十七両も命じられた。
 ところが、宝暦十年九月には、江戸の藩主忠寄の御意として、商人などの貸し手たちが家老水野内蔵助より近年出費が嵩んでいるのに、低米価で年貢米の売渡値段が低く、そのため借財が過分の金高になっているとして、以後借財の利息を五分に引き下げてもらうと共に、元金の方は年々の米値段次第で返済していきたいと申し渡された。平田家など貸し手の方は一方的な申し渡しに対して不満でも受け入れるしかなかった。
 同十二年、以前から藩の与内方役所の御用を務めてきたうえ、今回寸志米千百俵を差し上げたいと願い出たところ、称誉として十人扶持が与えられることになった。平田家にとって扶持米の支給は初めてであった。十人扶持は年々玄米十八石ほどが支給されるものであった。
 同じ三日町の林太郎兵衛家が明和六年(一七六九)二月中に類焼したので、七月の駒市宿は平田家が命じられて務めた(『鶴ヶ岡大庄屋宇治家文書』下巻)。
 安永元年(一七七二)藩主忠徳が初めて国入りしたので、一日市町御茶屋で御祝いとして主な町人に料理が与えられたが、平田太郎右衛門も出席した。
 天明三年(一七八三)は大凶作(「天明の飢饉」)のため、酒造りの停止が命じられたが、平田家では代わりに三社御神酒、御馬薬、酒粕、そして御医師たちの要望を受けて製薬酒を造ったのであり、少々ながら酒造りが継続されたのであった。なお、三社とは鶴岡の氏神である上下の山王社と四所の宮(春日神社)のことであろう。
 天明八年六月に幕府の巡見使が鶴岡にも来訪したのであり、その際平田家には巡見使に付き添ってきた医師が止宿した。因みに、巡見使に随行してきた著名な地理学者古川古松軒は林太郎兵衛家に宿泊した(拙著『庄内藩城下町鶴ヶ岡の御用商人』)。
 寛政四年(一七九二)当主太郎右衛門は願い出て吉郎右衛門と改めたが、同九年にまた太次右衛門と改めた。
 享和二年(一八〇二)、近年町方が静謐であるし、孝心奇特の者もいるとして当時三日町長人役の一人であった太次右衛門にも称誉の銀子が与えられた。
 文化三年(一八〇六)に太次右衛門は老年ということで隠居して、七代目当主に太郎右衛門が就いた。太次右衛門の伜であろう。
 文化十年に、四代藩主酒井忠真の御霊屋普請が行われたが、その際平田家は柱用として檜二十三本を提供した。
 同十一年六月、願って伜吉郎と父子勤めとなった。同十二年二月、町方の難渋者に対し施行をしたので、藩から扇子三本を与えられた。翌十三年二月にも施行した。町内の難渋者に対する慈善は富裕な者の義務と当時でも考えられていたのであろう。

2020年4月1日号

【第123回 有力な造酒屋だった三日町平田太郎右衛門家(一)】

 江戸時代、鶴岡では商人の浮沈が結構激しかったのであるが、その中にあってほぼ全期にわたって有力町人として活動した商人に、三日町(現昭和町)平田太郎右衛門家があった。
 家伝によれば、もともと会津藩蒲生家に仕えていたが、その後鶴岡に来住したという。蒲生氏郷が亡くなると、蒲生家は宇都宮に転封となるが、おそらくその際に同藩を離れたのではなかろうか。
 最上家の時代には鶴岡に居住していたのであり、元和八年(一六二二)に酒井家が入部してきたが、家臣たちの住宅が足りないため、建設されるまでの間、平田家の邸宅が借り上げられた。その御礼もあって、同年十一月に料理が与えられたという(「覚(先祖勤書)」、平田家文書)。
 その後、詳しい年代は不明ながら御使者宿を命じられて、江戸時代を通じて務めた。庄内藩に派遣されてきた使者を泊めたり、藩内の祝宴などに使用された。
 三日町では毎年六月に馬市が開催されたが、平田家ではその際に駒市宿を務めた。駒方役人や駒見分に来た家老に宿舎を提供するものであった。ただ、駒市宿は享保十九年(一七三四)に同じ三日町林太郎兵衛家と交代した(「古扣抄書」、『◆肋編』下巻)。
 御使者宿や駒市宿を務めることは名誉なことであったろうが、大した収入にはならなかったとみられ、かえって接待などで出費の方が嵩んだ可能性があろう。
 そのように考えると、平田家はほかに何か本業というべき商売があったはずである。数年前に亡くなられた平田家の当主正氏にその点を尋ねたことがあったが、分からないということであった。
 最近、平田家の江戸期の古文書を見る機会があり、その中に享保四年(一七一九)正月の「永代帳」という帳簿があって、そこに、
 一、八月二十日頃、新酒元  仕入可申候、節句前出し  可申候
とか、また十二月のこととして、
 一、五日頃ニ白酒仕入可申  候事
と、酒造りの記載があることから、平田家は当時造酒屋だったとみられる。因みに、翌五年十一月の「鶴岡御町酒判御改帳」(『鶴ヶ岡大庄屋宇治家文書』上巻)に、三日町のところに太郎右衛門の名前があるが、平田家のこととみられる。酒判を所持して正式に酒造りを行っていたのである。なお、平田家は酒造りで得た利益を江戸時代中頃から田地買い入れに向けていたようである。
 平田家は早くから藩主在城の年には、年始の御目見が許され御流れを頂戴したし、年々門松が与えられた。早くから有力町人として扱われていたのである。
 庄内藩は財政難となり、貞享四年(一六八七)・翌元禄元年に初めて鶴岡町人に御用金を提供させたが、その時は平田家の名前がない(『鶴ヶ岡大庄屋川上記』上巻)。しかし、元禄六年(一六九三)に平田家は御用金二両二歩を命じられたし、同九年には借上米として四千九百二十俵と九百四十五俵を提供した(「覚(先祖勤書)」)。御使者宿・駒市宿を務めていたので、その点に配慮して、藩ではあまり多額の御用金などを命じなかったようである。  ところで、平田家では元禄九年(一六九六)頃に類焼し、居宅・土蔵など残らず焼失する災難に遭った。その際、藩から材木が与えられたので、割合早く居宅などを再建したことであろう。
 しかし、その後の復興がなかなか順調でなかったというのであり、三十年以上も経った享保十六年(一七三一)に至っても、
 先年類焼以来勝手不如意罷 成、無拠奉願居宅相譲申候
    (「覚(先祖勤書)」)
というように経済的な理由で居宅を譲ったとする。しかし、平田家に長らく経済的な困難が続いたとは考えづらい。ただ、駒市宿の役を林家と交代したのは居宅の譲渡などの事情も関わっていたのであろう。
 藩の享保改革で全般に歳出が抑えられて、世子酒井忠寄すら生活費が不足するからと、何人かの町人が「仕送御用」を命じられたが、享保十五年に平田家も命じられて御用を務めたという。本当に経済的苦境が続いていたのであれば、そのような御用を務めることはできなかったはずである。  翌十六年冬に右の忠寄が五代藩主に就任すると、平田家は御膳前御用酒を提供することを命じられた。おそらく、藩主が在国中に嗜む御膳酒の提供ということであろうが、そのような特別な酒を提供することを命じられたのは、御仕送御用を務めたことに対する見返りであろうか。平田家は鶴岡の造酒屋の中で特別の扱いを受けることになったわけである。因みに、その頃鶴岡にはなお、百軒ほどの造酒屋があったが、その後急減する。

2020年2月1日号

【第122回 大山村橋本彦市の「越訴」事件とその後(下)】

 橋本彦市が牢抜けしたと大騒ぎとなった。領内の口々に直ちに足軽をやって取り締まったし、領外各地にも捕り方の役人七十余名を派遣したが(「大秘行司録」)、行方は知れなかった。
 代わって彦市の家族が捕らえられた。
 彦市は知り合いなどの手助けで、新庄に向かったことが分かり、捕り方を新庄にやったが見つからなかった。そして秋田を経て箱館(函館)に行ったという噂もあった。
 牢抜けは、牢番が盆踊りを見に行った折に実行されたが、彦市が牢を破ったわけではなかった。合鍵が使われたかは不明であった。
 彦市の方は秋田領横手に行き、その地で酒株を譲り受けて酒造を始めていた。当時秋田は酒造りが上手ではないため、結構繁昌して、僅かの間に藩の御用酒屋になるほどであった。
 偶々秋田領の同心体の者と庄内の方に知り合いもいて、その者が彦市と似た者が秋田領にいると知らせてきた。そこで同心二人を秋田へ派遣した。
 しかし、その者は人相書きとは似ていないということであったが、折角出向いたことから、その者の顔を一応確認したいと、二人の同心は横手に行き当人を見たところ、人相書きにそっくりであり彦市に相違ないと判断された。彦市が早朝酒蔵から出てきたところを捕らえたのであった。
 彦市は「運の尽也」と言って、大人しく捕らえられたという。十一月十一日のことで同十九日に鶴岡に戻された。召し捕った同心二人には称誉として生涯一人扶持の加扶持が与えられた(同前)。
 取り調べにより、牢抜けは外から開けられたのではなく、彦市が竹ひごで鍵を突き開けたものと判明した。
 その後は責め道具などを使わずとも、彦市は尋問に素直に応じたという。しかも藩に敵対する気はなく、どのような刑罰に処されても仕方ないが、ただ親は高齢なので容赦してほしいと願い、出牢となったようである。
 取り調べの際も、彦市は「言舌奇麗成る事之由」(「自娯抄」)と、話し方が流暢で明確だったようである。池田玄斎「病間雑抄」でも、取り調べに当たった役人の談として、「大男にて応待(応対)など静に至ておちつき、びくともせざるけしき、いつれ大丈夫と見ゆるもの也、幾度御尋にても初め一言をかえず、一身を捨て万人の為に代る趣也」と記している(『大山町史』)。物に動ぜず、常に冷静沈着で、尋問にも落ち着いた受け答えをしたのであろう。
 「自娯抄」と「病間雑抄」とで、彦市の尋問への対応でやや異なった記述がされている。彦市はやはり「一身を捨て万人の為にめ代る」人物であったと思われ、牢の中でも自分のことよりも村のことなどに気を配っていたようである。いかに同じ大山村の人とはいえ、普通であれば自分が御尋ね者になってまで、他人である佐藤善右衛門のことで幕府に訴えようとは思わないのではなかろうか。
 今回、彦市は改めて永牢を命じられた。
 三方領知替えが主として庄内領民の反対運動から中止になったことへの報復から、庄内藩は長らく許されてきた庄内天領に対する預地支配が天保十三年(一八四二)五月に中止を命じられた。大山村の治右衛門・清右衛門という者が理由も不明のまま捕らえられていたが、預地の返還に先立って殺害されたという(『山形県史・近世史料』2)。彦市については、
一、彦市儀大山人別入ニ而御 座候処、一昨年御引渡之節、 如何之訳か鶴ヶ岡役所より 相外し候様仰付られ候て相 除申候(同前)
と、庄内藩の命令で大山村の人別帳から除かれたという。そのまま殺害される可能性もあったのである。
 池田玄斎も彦市が天保十三年に死亡したと思っていた(『大山町史』)。藩によって殺害されたと思っていたのであろう。万一生きていて、大山騒動時に在村していたとすれば、藩にとって「むつかしきものと存候」(「病間雑抄」)と考え、すでに亡くなっていたのは藩にとって幸いであったとみていた。
 しかし、彦市は殺害されることなく、そのまま牢に入れられていた。橋本家の史料では彦市は安政六年(一八五九)九月三日に死去した。七十八歳であった。どうやら引き続いて牢に入れられたままだったようである。
 その間、少なくとも二度親族より出牢願いがされた(橋本家史料)。一度目は嘉永二年(一八四九)のことで、大病を理由とするものであった。二度目は安政元年(一八五四)のことで、七十一歳になっていて老衰と多病を理由とするものであった。両度とも許されなかったのであろう。結局牢死したのである。
 彦市のような人物の半生を牢で虚しく送らせたのであり、藩権力の非情さが思われる。