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人物でたどる鶴岡の歴史

【本間勝喜氏略歴】
昭和37年 鶴岡南高校卒業
昭和41年 慶応義塾大学卒業
昭和49年 東京教育大学大学院退学
昭和61年 明治大学大学院修了、山梨県大月市立大月短期大学講師、羽黒高校講師を歴任。
現在、鶴岡市史編纂委員。

2018年12月1日号

【第115回 平士から家老となった石原倉右衛門(四)】

 文化八年(一八一一)七月、中老となった倉右衛門は「御系譜」書上の御用掛となった。これは幕府が「寛政重修諸家譜」の編纂をするので、酒井家の系譜を提出するためであった。
 二百石の加増があったとはいえ、中老としては少知であるので手当米百俵が年々与えられることになる。
 同年十二月、藩主忠器より直々に御地盤立直(たてなおし)御倹約掛を命じられた。
 同九年九月に前藩主忠徳が死去したので、倉右衛門が法事の惣奉行を務めることを命じられた。
 同十年七月、世子忠発の縁組御用掛を命じられた。
 同八月、家老の役を命じられ加増三百石があり、知行千石となった。倉右衛門を隼人と改名した。
 同月、養子蔵太(成裕)は御広間の番頭の見習いのことを願い出て許された。同月、隼人は前藩主忠徳の一周忌法事の奉行を命じられた。
 同十一年三月、蔵太は番頭代を務めるので、二十人扶持が与えられた。翌十二年七月、蔵太は正式に番頭を命じられ、十人扶持が加えられ三十人扶持となった。
 同年九月、隼人は願って乗輿御免となった。老齢となって歩行が容易でなくなったものか。江戸城登城の際にお供をするなどの際のこととみられる。
 同月、改めて御地盤仕法替倹約掛を命じられた。
 当時、庄内・由利天領は庄内藩の預地になっていたが、同年十二月に預地に対して私領同様の取り扱いが許された。
 それ以前から身体が不調であったが、文政元年(一八一八)五月に隼人は中風となった。藩主忠器・世子忠発などから見舞いの使者や薬などが遣わされた。
 同十月、御医師山岸道一が遣わされたが、同月二十三日に隼人は病死した。享年六十であった(『新編庄内人名辞典』)。隼人が病死したとして、鳴り物が江戸で一日、庄内で三日停止となった。歌舞音曲のことである。
 同年十一月、養子蔵太が家督(知行千石)を相続し、上座番頭となった。家老などの嫡子としての待遇がされたわけである。なお、庄内勝手となり庄内住まいとされた。ただ、蔵太はしばらく江戸にとどまっていたようである。忌中のためとみられる。
 長子道之助が嫡子となった。
 同三年二月に忌明けとなった。前年、老母が病気となっていたので、庄内に帰って、二、三年ゆっくり養生させたいと願ったこともあり、同四年秋に庄内に下ることが命じられた。それより先、鶴岡では石川主膳の揚屋敷が与えられた。
 同九月、藩主忠器に拝謁したうえで休息の御暇を賜った。そして、家内を引き連れ江戸を出立し、庄内に移った。
 しかし、同年十二月には、来る五年春に忠器上京の御供を命じられたので、五年二月に江戸に行き、四月に忠器の御供をして京都に登ったが、五月には江戸に戻った。同年九月に庄内に帰るが、この時も庄内に赴く忠器の御供としてであった。
 文政十年(一八二七)正月、蔵太は組頭の役を命じられた。組頭は家中組の隊長であり、名誉ある役職であった(『鶴岡市史』上巻)。同十二年十二月に、家中の武器取調掛を命じられた。
 天保四年(一八三三)正月に御家中勝手支配を命じられ、それまでの武器取調掛は解かれた。
 同五年十月末、支城亀ヶ崎城に交代で在番することを命じられて酒田に赴いた。あまり長期ではなかった。
 同年秋は、前年とは代わって非常な豊作となったので、城内で黒川能が催されたが、蔵太も見物を命じられた。
 同六年二月に嫡子道之助が病死したので、次男順之助(成知)を嫡子にしたいと願い許された。
 同八年九月、長沼流兵学の免状を許された。兵学の師匠は年代的にみて水野丹解であろうか。
 同九年三月、家中「打立」を忠器が閲したが、その際蔵太の組も出向いたことから、蔵太の組一同に肴が与えられた。
 同十一年十二月、嫡子順之助が初めて御目見し、嫡子並みの奉公することとなった。
 同月、酒井家の長岡転封令を受けて、蔵太は鶴ヶ岡城引き渡しの役目を務めるように命じられた。しかし、転封が中止となったので、その役目は果たさないで済んだ。
 同十四年正月、新藩主忠発が初めて国入りしたので、その御祝いとして城内で黒川能を観覧したが、蔵太も見物を命じられた。嫡子順之助と三男鎗三郎も見物した。
 すべてが順調にいっていたようであったが、弘化二年(一八四五)三月、蔵太は何か失策でもあったのか「御役不相応」として突如組頭を罷免された。
 蔵太の後を継いだ順之助改め石原倉右衛門は、組頭を経て中老となったが、戊辰戦争時に新潟で討死した。それなのに開戦責任者とされた。一旦石原家は断絶となった。
(終わり)

2018年10月1日号

【第114回 平士から家老となった石原倉右衛門(三)】

 寛政六年(一七九四)五月に勘右衛門が隠居したので、代わって聟養子主馬改め倉右衛門(成美)が知行三百石を相続した。同人はそれまでと同じ近習頭取のまま側用人席を命じられた。与えられていた知行百石は返還された。
 翌七年、参勤で帰国する藩主忠徳に付き従って鶴岡に帰った。同年十二月に役料二十石を与えられた。もっとも「名山蔵」(鶴岡市郷土資料館閑散文庫)では、前年六年のこととする。
 鶴岡での倉右衛門のことは、中老竹内八郎右衛門「日記」抄(『山形県史近世史料』2)に何度か出てくる。例えば、八月二十五日には、 一石原倉右衛門により封印ニ て御意之旨申来ル
とあり、藩主忠徳の書状が倉右衛門を介して老臣に届けられていたことが知られる。
 寛政八年五月に農村復興に関しての取り次ぎを命じられた。前年に庄内藩の寛政改革が始まったからである。七月には小姓頭席及び老職が詰める御用部屋への立ち会いも命じられた。十二月には精勤したとして小姓頭次席を命じられた。
 同年十月、藩主忠徳が明年九月に京都への使者を務めることになったので、倉右衛門は上京の御用掛に就いた。
 翌九年四月、忠徳上京の御供を命じられたが、その際格別の思し召しによって金十両を与えられた。五月、京都では忠徳が参内する度に御供するように命じられた。
 同八月、倉右衛門は小姓頭兼帯とされ、九月に加藤宅馬次席となった(「名山蔵」)。
 十月、倉右衛門の知行が少ないからと、米三十俵を年々手当に与えられることになり、また増役料三十石を加えられ、役料五十石となった。小姓頭は通常知行六百石前後の高禄者が務めるものであった(『鶴岡市史』上巻)。
 寛政十年正月、養父勘右衛門には妾腹の男子がいたが、倉右衛門はその男子(蔵太)を自分の嫡子にしたいと願い出て許された。
 六月、本役同様に倹約掛を命じられた。寛政改革に本格的に関わることになったのである。
 八月、忠徳の帰国に御供し、十二月に小姓頭本役に任じられ、それまでの役料五十石は加増となって知行三百五十石となったうえ、改めて役料五十石を与えられ、都合四百石高となった。翌十一年五月の参府でも御供を命じられて江戸に登った。
 同年十二月、藩は家臣に課していた上米(あげまい)を半分に減じたが、それにより倉右衛門に与えられていた三十俵の手当米は中止とされた。
 同年、幕府は大名・旗本らの系譜を全面的に改撰することになり、そこで酒井家では系譜を改めて提出することになったので、享和元年(一八〇一)春に家老松平内膳などを御用掛に任じたが、倉右衛門もその一人であった(「二天間記」、郷土資料館庄内古記録)。
 享和二年十二月、倉右衛門は加増百石があり、五百石高となった。
 翌三年六月、庄内藩は東海道及び甲州の川々の普請手伝いを命じられたが、倉右衛門は副奉行に任じられた。その件で、十二月に江戸城において老中戸田采女正より白銀・時服などを与えられた。
 文化二年(一八〇五)七月、忠徳が隠居するので、倉右衛門は江戸・下谷藩邸の奥普請掛を命じられたし、世子忠器が新藩主に就任するので、八月にその御用掛とされた。
 なお、その隠居した忠徳より郡代白井矢太夫に紋付きなどが内々で与えられることになったが、そのことは「御小姓頭石原倉右衛門」より通知があったのである(白井矢太夫「勤書」、郷土資料館白井家文書)。
 普請したばかりの下谷の新邸が翌三年三月に類焼したので、四月に倉右衛門は再び普請御用掛を命じられた。もちろん立派に再建したことであろう。
 同年五月、嫡子蔵太が家老たちに会って、嫡子並み奉公することを言上した。
 同年十一月、翌四年の藩主忠器の婚礼御用掛を命じられた。文化四年十二月に忠器が従四位下に昇進するので、やはり御用掛を命じられて、役料五十石が加増された。知行五百石となったのである。
 文化六年六月、倉右衛門は御地盤御倹約掛を改めて命じられた。御地盤というので、主として藩自体の財政の倹約掛であろう。
 翌七年十二月、支藩松山藩より酒田・本間家に財政のことで依頼する際に、倉右衛門が世話をしたのであり、藩主大学頭より御礼の直書で御肴などが贈られた。
 そして、文化八年に庄内藩に政権交代があり、倉右衛門は中老に任じられ、加増二百石があって、知行七百石となった。

2018年8月15日号

【第113回 平士から家老となった石原倉右衛門(二)】

 延享四年(一七四七)十二月、石原勘右衛門(五代成信)は物頭として兵具支配加役を命じられた。
 寛延二年(一七四九)九月、藩主酒井忠寄が老中に就任したが、その際に拝領した屋敷を受け取る役目を命じられて、勘右衛門は足軽たちを率いて受け取りに出向いた。同月、当分大目付の役も命じられた。
 宝暦元年(一七五一)閏六月に勘右衛門は番頭代を命じられたし、その後も番頭代や奏者加役を何度か務めた。
 同四年正月、嫡子蔵太が世子忠温(ただあつ)の近習当分となった。なお、乙吉を蔵太と改名したものである。同七年七月に蔵太は正式に忠温の近習となると共に腰物方加役となった。九月にまた蔵太を才治と改名した。
 翌八年十月、才治は忠温の御供支配兼帯となった。同十年四月に御供支配のまま、忠温の三男忠徳(ただあり)の御抱守加を命じられた。忠徳は宝暦五年十月の生まれで、その時数え六歳であった。同十二年十一月に才治は抱守本役となった。
 同じ十一月に勘右衛門は病気のため、役目を務めがたいとして辞職を願い出て、隠居することが許された。七十歳であった。
 代わって才治(成苗)が六代当主となり、高二百五十石を相続した。石原家は引き続き江戸詰であり、御広間御取次見習を命じられた。
 明和元年(一七六四)五月に才治は物頭となり、御兵具支配加役を命じられた。同年六月、勘右衛門と改名した。
 翌二年五月、勘右衛門は物頭・兵具支配のまま、忠寄の四男万之助(本多康伴)付きを命じられた。しかし、万之助が本多下総守(膳所藩六万石)の養子となったので、御付きは御免となった。
 明和三年に足軽倹約方を命じられた。足軽たちの暮らしが困窮していたことから、上司である物頭として生活改革を監督したのだろう。同十二月から番頭代・奏者代を度々務めた。
 翌四年十一月、前藩主忠温の一周忌の法要に際し、大目付代を命じられた。同五年七月、貸物方加役を命じられた。同七年五月、留守居の役を命じられ、役料五十石が与えられたので、三百石高となった。
 安永六年(一七七七)八月、藩主忠徳夫人脩(なお、仙寿院)付きの頭役を命じられた。その際、それまでの役料五十石が加増された。用人次席(用人格)となった。家格が上昇したのである。
 勘右衛門には男子がなかったので、家中長沢牛兵衛の弟主馬を聟養子とした。牛兵衛は高六百石で用人を努めており、上士であった。
 天明元年六月の御勝手御用掛となった本間光丘が立案した「天明御地盤立」(『鶴岡市史』上巻)に基づく財政改革の一環として、夫人付きの頭役も減員とされて「一人勤め」となったが、勘右衛門が引き続き一人で務めた。
 奥の勝手向には当時借財があって、それまでは藩財政の方から返済されていたが、勘右衛門の尽力によるものであろうか、御奥地盤金が設けられ、藩財政から自立し、自己責任で返済したのであり、そのため夫人より言葉があった。尽力に対して感謝を表したのであろう。同年六月、用人席を命じられた。
 天明三年(一七八三)四月、役料三十石が与えられ、三百三十石高となった。同八年三月に奏者を命じられたが、席順はそれまで通りの用人席であった。番頭の方も務めるように命じられた。
 寛政二年(一七九〇)六月、一代番頭を命じられたが、席はそれまで通りであった。
 以前から足痛があったので、参勤交代で帰国する藩主忠徳に随って鶴岡に帰り、温海へ湯治に行きたい旨を内願したところ、七月に許されたが、奏者の振合でとされた。奏者の格での帰鶴・温海湯治が許されたのである。勘右衛門にとって、あるいは初めての帰郷だったかとも思われる。
 湯治が終わると直ぐに江戸に戻ったものか、八月には御広間倹約を命じられた。
 翌三年六月、京都の御所改築完成の祝いのため、勘右衛門は同地への使者を命じられて京都に登って役目を務めた。
 江戸に戻ると、参勤で出府していた忠徳が不快のため将軍に拝謁ができないので、その件につき使者を命じられて、江戸城に登った。
 同年十月、夫人が実家の田安家に帰る際、組頭代を命じられて御供した。同五年八月にも田安家へ御供し、やはり組頭代を命じられた。
 勘右衛門は寛政六年五月、老年につき隠居を命じられた。願い出ていて許可されたのであろう。聟養子主馬(蔵太)改め倉右衛門が相続した。同人は家老まで出世することになる。