人物でたどる鶴岡の歴史
【本間勝喜氏略歴】
昭和37年 鶴岡南高校卒業
昭和41年 慶応義塾大学卒業
昭和49年 東京教育大学大学院退学
昭和61年 明治大学大学院修了、山梨県大月市立大月短期大学講師、羽黒高校講師を歴任。
現在、鶴岡市史編纂委員。
掲載インデックス 2023年
第145回 心学の普及に努めた荒井伝右衛門家(一) 2023年12月1日号
第144回 松平伊豆守家から移った朝岡家(下) 2023年9月15日号
第143回 松平伊豆守家から移った朝岡家(中) 2023年8月15日号
第142回 松平伊豆守家から移った朝岡家(上) 2023年6月15日号
第141回 荒町の豪商竹野治郎兵衛家(下) 2023年4月1日号
第140回 荒町の豪商竹野治郎兵衛家(上) 2023年2月1日号
■鶴岡の歴史 バックナンバー
・2022年 掲載 ・2021年 掲載 ・2020年 掲載 ・2019年 掲載 ・2018年 掲載
2023年12月1日号
江戸時代後半、七日町(本町三丁目)に荒井伝右衛門という富商がいた。
代々伝右衛門を襲名したようであるが、幕末の和水の時に、庶民の思想である心学を広めたことで知られる。
鶴岡市郷土資料館には「荒井家心学史料」と称して関係する古文書が所蔵されており、その中に「荒井家勤書」と記された先祖勤書が三点ほど含まれている。
これによって荒井家と庄内藩の関係をある程度知ることができる。とはいえ、主として荒井家が藩や役所に対して、どのような貢献をしたかが記載されているのである。
先祖勤書といえば、通常先祖(初代)から記載されるのであるが、荒井家の場合はいずれでも四代目の荒井伝右衛門の寛政九年(一七九七)から記載が始まっている。それ以前のことを書いた記録は当時からなかったものか。
参考までに推定すると、一代の期間を二十年とみれば四代で八十年となり、一代を二十五年とみれば四代で百年となる。寛政九年の八十年前とみれば享保三年(一七一七)に当たるし、百年前とみれば元禄十年(一六九七)に当たる。いわば江戸時代の中頃である。
江戸中期は、士族でも農家でも分家が多く作り出された時期である。町人においても同様とみられる。
荒井伝右衛門家も、初代が元禄〜享保年間の江戸中期の誕生とみれば、その頃に分家されたものか。ちなみに、最近の電話帳を見ると荒井姓の家が十軒ほどある。その中に荒井家の本家に当たる家も存在しているものか。
さて、先祖勤書に戻れば、寛政九年四月、七代藩主酒井忠徳が将軍徳川家斉の名代として上京した。その時の経費が約四万両にのぼったのであり、そのため領内から米金を調達した。
荒井家でも御用金三十七両二歩を命じられて上納したし、外に寸志として米百俵を差し上げた。領内に住む富商や富農などは、そのような御用米金や寸志米金をしばしば命じられて上納したのである。
ところが荒井家の場合は、右のような米金を上納したり差し上げたりすることはあまり多くなく、代わって鉄砲や甲冑(かっちゅう)・具足・小手・臑当(すねあて)など武器・武具を上納することが多かった。他の商人などとは異なっており、その点に特色があったといえよう。
荒井家の武器・武具の提供は四代伝右衛門の寛政十一年(一七九九)八月が最初だったとみられる。
会津藩で歩行立甲冑・小手・臑当を新たにし、古いもの百領を売り払うと聞いた伝右衛門は、そのような武具類を庄内藩で使用するつもりがあるかを内々で伺いを立てた。同藩で使用するつもりがあるというので、伝右衛門はそれらを買り取り、寛政十一年十一月に五十領、翌年中に五十領、合せて百領を差し上げることにした。
ただ、武士でもない商人が藩に甲冑を差し上げた前例がそれまでなかったので、藩主酒井忠徳が在府中だったものか、わざわざ江戸まで伺ったのである。江戸藩邸ではしばし検討したうえで、伝右衛門の武具上納を許可したのであった。
実際には十一月と翌年六月に上納されたのであった。武具類は藩の会所で家老たちが見分したうえで兵具方に引き渡された。
この貢献に対し、寛政十二年八月に藩は称誉として二人扶持方を与えた。荒井家にとって初めての扶持米であった。なお、一人扶持は一年に玄米で約一石八斗与えられるものであった。同時に紋付きの上下も下賜された。
同じ十二年九月には、小姓具足三十領を翌年より三、四カ年のうち、他領から調達次第に追々寸志上納したいと願ったところ許可された。
そのためか、その後たびたび他領に出かけて買い求めたが、その際には御伝馬を許され、帯刀して往来した。
調達した具足らを翌享和元年(一八〇一)六月と同二年四月の二回にわたり上納したが、藩の会所へ運んで家老たちの見分を受けた。そのうち二年四月に上納した分はいずれも良い武具が揃っているうえ、古くに造られてしっかりしたものが入っているとして大いに褒められた。
以後は他領より入ってきた武具ばかりでなく、領内から出た甲冑も財力次第に買い取って、決して他領へ出すようなことはしないとし、実際小姓具足二十領を追々調達して差し上げたいと願って許された。
また待っているばかりでなく、越後・会津・米沢・仙台・最上の辺りまで出張して追々買りい求めたとする。
ところが、四代伝右衛門は享和二年九月に死去した。生年が不明なので、享年も不明である。
2023年9月15日号
朝岡家の六代目、文次郎改め助九郎は文化二年(一八〇五)に家中組の頭である組頭に就任していたが、同十年三月に家中組に属さない家中などの支配も命じられた。
元和二年(一六一六)に没した東照宮(徳川家康)の二百回忌の法要が、文化十二年三月に、羽黒山で執り行われたので、助九郎は御太刀銀・馬代を献ずる使者を務めた。
文政五年(一八二二)二月、八代藩主酒井忠器が十一代将軍徳川家斉の使いとして上京した際に、助九郎は忠器の御供をした。
文政十年二月、助九郎は老年となり耳や目が衰え、物忘れもひどくなったとして、組頭辞任を願ったところ許可された。この場合、隠居したのではなく、組頭という役職を辞したにすぎなかった。
その時に、足痛などで着座もできかねる状態であったので、ゆるゆる保養しながら務めるように申し渡された。そのため月番などは御免となった。すべての役人は複数人いたので、月交代で中心になって役目を果たす月番を勤めたのであるが、その月番が免除されたのであった。
その上、これまでの精勤が賞されて時服一つが与えられた。
そして、第六代助九郎は天保二年(一八三一)五月に病死した。享年六十六才であった。代わって六代目助九郎の実子朝岡要人が第七代当主となり、同年七月に高千石を相続し、上座番頭に就任した。服部行蔵の上席とされた。
同年九月には組頭に就任し、以前、加藤甚七郎が預かっていた家中組を預かることになった。
天保四年正月に要人は助九郎と改名した。
同八年の「御分限帳」(「御分限帳集成」、鶴岡市郷土資料館小沢家文書コピー)にも、
組頭千石 朝岡助九郎
とあり、また、
朝岡助九郎組 都合二十五騎
外に大庄屋
とある。預かっている家中組についてである。
ところが、助九郎は天保十年正月に病死した。享年四十才の壮年であった。
代わって、要人改め助九郎の実子朝岡斎宮が第八代当主となり、高千石を相続し上座番頭に就任した。末松十蔵の上席とされた。
天保十四年十月に組頭に昇進した。以前加藤衛夫が預かっていた家中組を預かった。
弘化元年(一八四四)六月、斎宮は助九郎と改名した。嘉永元年(一八四八)正月、家中武器取調掛となった。家士たちは家計が苦しく所持する武器が十分でない恐れがあったためであろう。
同二年「御分限帳」(致道博物館文書)には、
御小姓頭 高千石 朝岡主殿
とあるが、組頭の者が小姓頭というのは変である。あるいは組頭就任以前に一時小姓頭を勤めたものか。「主殿」という名前もおかしい。
同四年五月、酒田・本間家一族の本間健吉という者が別家を命じられたことに関わり、助九郎は組頭を免じられ、指扣を命じられた。六月五日には宥された。事件の詳細は不明である。
同五年十月、助九郎など五人の重臣が交代で亀ヶ崎在番を勤めるように命じられた。一カ月交代であった(『鶴岡市史』上巻)
安政二年(一八五五)正月、組頭の役に復帰した(「諸役前録」上、郷土資料館)。
同六年八月、イギリス船が酒田へやってきたので、助九郎は宮野浦(酒田)へ預かっている家中組の面々と共に出張した。
万延元年(一八六〇)に助九郎は中老に就任した。『鶴岡市史』(上巻)によれば、中老は家老職見習いであり、家老の候補者といった役であったし、御小姓組を統轄し、御普請組・御持筒組を支配するとする。
中老は家老と共に藩政を遂行する立場であり、時によっては家老を差し置いて藩政の実権を握ることもあった。大変重い役職だったのである。
慶応元年(一八六五)五月、助九郎は文久三年(一八六三)三月に庄内に下っていた大殿酒井忠発夫人(大御前様)らの御供で江戸に登った。すぐに庄内に戻ったが、慶応二年正月に急に出府を命じられ、二月三日に出立。清川口を経て江戸に向かった。急用ができたのであろう。
当時、大殿忠発のバックアップのもと、中老松平権十郎が次第に藩政を主導すると共に佐幕的な立場を強めていった。そのことを危惧する藩士たちは藩政改革を目指すが、権十郎らの知るところとなり弾圧を受けた。
それらの者たちの取り調べに助九郎も関わった(『新編庄内人名辞典』)。そして、助九郎は大殿らの意向もあって、慶応四年一月に家老となった(「公私日記」、『明治維新資料・明治期』)。
朝岡家はついに家老まで登り詰めたのである。朝岡家は子孫が現在も鶴岡市内在住である。
2023年8月15日号
寛延二年(一七四九)九月、藩主酒井忠寄が幕府老中となったので、忠寄は江戸住いとなったが、朝岡弥左衛門(後に与一兵衛と改名)は側用人となって、他藩などよりの到来物の担当となった。老中には様々な人から沢山の届け物があったのであろう。
しかし、宝暦三年(一七五三)八月、病気のため、一旦側用人の役を退き番頭となった。その後明和二年(一七六五)四月に小姓頭に就任した。
側用人は藩主の側に侍して政務の取り次ぎをなすものであり、藩政の枢機に参与する重要な役目であったので、歴代その選任に意を用いた(『鶴岡市史』上巻)といわれる。また小姓頭は中老に属し、近習・小姓等の小姓組を統轄する役で六百石前後の高禄者より任命され、いわゆる旗本の隊長としての役目を有し、藩より藩士に伝えられる御触は組頭及び小姓頭の名前で出されたのである(同前)。
同じ年五月、弥左衛門に実子がいないとして、弟の朝岡助九郎は別に知行百石を与えられて書院目付を勤めていたが、同人を養子にしたいと願い出て許可された。
実のところ弥左衛門には男子が一人いたが、まだ三才の幼児だったので、三十八才になっていた助九郎を養子に望んだのであった。
明和四年正月、弥左衛門に加増五十石が与えられて、合せて知行五百石となった。
翌明和五年八月、江戸で中老を命じられ、再び加増二百石があり、知行七百石となった。
明和七年三月に、庄内藩の出願があって、幕府から国目付二人が派遣されたので、弥左衛門はその担当となった。彼らは幕府の旗本であり、色々と気を遣ったものと思われる。
明和八年八月、病気のため中老を辞任し、番頭に戻った。
翌安永元年(一七七二)正月に隠居願をして許され、隠居免百石を与えられた。隠居後の暮らしに宛てるためであるが、限られた家臣などに与えられるものであった。その時弥左衛門は六十三才であった。
代って、弥左衛門の弟で養子となった朝岡助九郎が五代目当主となり、弥左衛門の知行七百石のうち六百石を与えられ番頭となった。
同年九月組頭を命じられた。家老・中老に次ぐ役職である。
安永五年四月、日光勤番の節、勤番に当たる藩主酒井忠徳の御供をし江戸より赴いたという。
その頃藩の借財が増加していたので、天明元年(一七八一)三月に「御倹約御用掛」を命じられた。財政を削減するため、藩は同年「天明御地盤立」と称される財政改革に取組むので(同前)、助九郎もそれを担当するメンバーとなっていたのであろう。
同人は同三年七月に中老に任じられ、加増百石があって知行七百石となった。
天明八年二月、藩は東海道筋川々御普請手伝御用を命じられたが、助九郎は御普請惣奉行を勤め、四月に普請が無事終わったので、惣奉行だった助九郎は江戸城に登り、白銀などを与えられた。
翌寛政元年五月に家老に任じられたという。なお、「重職歴任者一覧」(『荘内史要覧』)では四月の就任とする。加番百石があり知行千石となった。
寛政十二年(一八〇〇)三月、江戸勤番を命じられるも老令により出府が困難であると用捨された。その際、特に記載がないが、おそらく家老退役を申し出たのではないかとみられる。
翌享和元年正月に助九郎は病死した。
代って、六代当主となったのは助九郎の実子である朝岡文次郎であった。年内の十一月に助九郎と改名した。
文次郎改め助九郎は、まだ嫡子の時の寛政八年十二月に親助九郎の出府に同道した。助九郎が老令であったのに配慮したためか。
寛政九年三月に番頭代に任じられ、二十人扶持を与えられた。米で三十六石ほどである。寛政十年四月に三十人扶持に増加し、番頭に召出された。
寛政十一年五月に父助九郎の跡式千石が与えられ、上座番頭を命じられたとするが、翌十二年三月頃にも父助九郎が家老に在任していたし、もし隠居したとしてもその後のことになり、十一年五月に助九郎の跡式を与えられることはありえないことである。もう一年か二年後のことであろう。千石が与えられると共に、三十人扶持は返上された。
文次郎改め助九郎は享和二年(一八〇二)十月に、九月に家老を退いた酒井吉之允の揚屋敷を与えられた。
文化二年(一八〇五)七月、組頭を命じられた。翌八月に服部圓蔵の元組を代って預った。組頭は二十数名で構成する家中組の隊長であり、助九郎も家中組の隊長となったわけである。
文化十年三月、「組付外並に明組取扱」を命じられた。家中組に属さない家中の者などの支配に当ったのであろう。
2023年6月15日号
庄内藩の三代藩主酒井忠義の夫人・諏訪姫(東陽院)は松平伊豆守信綱の子・松平甲斐守輝綱の娘であり、寛文六年(一六六六)に輿入れした。その際、松平家の家臣が御供付人として付き添い、そのまま庄内藩の家臣となった。
その主な人物は
一、高三百石 朝岡武兵衛 一、高弐百五拾石
妻木太郎右衛門
の二人であった(『大泉紀年』中巻)
そのうち朝岡家はその後重臣となり、番頭、組頭、中老、家老などを務めた。
初代朝岡武兵衛は延宝四年(一六七六)まで、足かけ十一年奥方御用人役を務め、同年八月年七十一で病死した。
二代が朝岡助右衛門であり、武兵衛の実子である。寛文七年二月に小姓に召出され、同十一年に四代藩主酒井忠真(ただざね)の抱守を務めた。延宝元年三月に父・武兵衛とは別に新知百石を与えられた。
武兵衛が亡くなると、助右衛門は高三百石を相続したので、自分に与えられていた知行百石は返還した。
延宝六年二月改「諸士分限帳」(『●肋編』上巻)にも高三百石のところに「江戸衆 浅岡武兵衛」とある。
天和元年(一六八一)八月に御部屋腰物方を務めた。同十二月に江戸に登った。
天和二年二月に四代藩主に就任した酒井忠真が病気のため、同九月に祈禱の名代を務めて戸隠山(長野県北部)に赴いた。その効果があったのか忠真は間もなく全快した。同じ九月に腰物方役を命じられた。
同十二月に出頭役並びに御膳目付役を務めた。出頭役は藩主の傍らにあって政務に関わりつつ、特別な寵愛を受けた家臣のこととみられる。
そして、翌三年八月、庄内勝手を命じられた。国元詰めとなったのである。貞享元年(一六八四)九月に御供騎馬を命じられたのであり、忠真が帰国時に他出する際に御供を命じられた。
同三年、助右衛門は御手廻頭の役を命じられた。御手廻は準家中というべき家臣たちである。
元禄元年(一六八八)加増五十石を与えられたので、合せて知行三百五十石となった。
翌二年、忠真の婚儀につき熊本藩細川越中守に御祝の餅五百八十個を届ける使者を務め、越中守より白銀五枚を頂戴した。
元禄七年九月、小姓頭役を命じられ、十人扶持(米十八石ほど)が与えられた。小姓頭は庄内藩では知行六百石前後の高禄者が務めたが(『鶴岡市史』上巻)、助右衛門は三百五十石と少禄だったので、その一部を補うべく十人扶持も与えたのであろう。そして元禄十年正月に加増百石があり、合せて知行四百五十石となった。十人扶持の方は返還された。
宝永元年(一七〇四)二月、小姓頭役を罷免され番頭となった。番頭は城内の取締りに当たるものであった(同前)。
宝永七年十二月、助右衛門は隠居した。六十三才であった。
三代目は助右衛門の実子の朝岡与市兵衛である。初め源三郎と称したが、後に与市兵衛と改名した。十二月中に知行四百五十石を相続した。やはり番頭を命じられた。
正徳二年(一七一ニ)十二月、用人役を命じられた。同五年五月に御手廻支配を命じられた。同月、御徒支配兼帯を命じられる。
享保二年(一七一七)五月、江戸において御数寄屋方並びに御徒支配兼帯を命じられた。同十三年四月、小姓頭代を命じられ、九月に正式の小姓頭となった。
享保十六年「御家中分限帳」(『●肋編』上巻)に、知行四百五十石のところに朝岡与一兵衛とある。
元文五年(一七四〇)七月、病気のため隠居した。六十三才であった。
四代目は、与市兵衛の実子朝岡弥左衛門だった。同人はその後、織部→舎人→与一兵衛と改名した。
嫡子の時の享保十四年に列卒頭を命じられた。元文五年七月に知行四百五十石を相続し番頭を命じられた。寛保元年(一七四一)九月、五代藩主酒井忠寄の上京の御供を命じられて務めた。
同三年三月、臨時的に組頭となり、亀ヶ崎城加番を命じられた。その後も数度務めた。
延享三年(一七四六)旗奉行を命じられた。旗奉行は一般に閑職とみられたが、どうであったろうか。
翌年九月用人を命じられた。寛延元年(一七四八)御坊主支配並びに御数寄屋方兼帯を命じられた。
なお、朝岡家の史料は鶴岡市郷土資料館所蔵のコピーによっている。
2023年4月1日号
文化八年(一八一一)六月の時点で、竹野家はまだ藩の御用達ではなかった(「御用留」荒町真島家文書、鶴岡市郷土資料館)。
御用達は御用金、才覚金などの名目で藩へ米金などを貸し付ける町人のことである。
竹野家が御用達になる以前から米金の提供をしたことは前回紹介したように、例えば、文化三年七月に御用金六十両と才覚金百三十両を提供したことからも確認できる。
間もなく竹野家も御用達に任命されたと推測される。御用達となれば、藩役所からも特別な扱いを受けることになる。
ところで、個人間の融通とは別に、町の制度である町用金として金子の融通が行われた。文化年間頃、竹野家はその町用金の掛かりとなっていた。
文化十年酉二月の「去申御用金一紙帳」(宇治家文書、前同館)には、
右は去申御用金一紙、治郎 右衛門請払かくの如くに御 座候
文化十年
酉二月
平田太郎右衛門 〇
兼子喜右衛門 〇
材木屋石之助 〇
竹野屋治郎右衛門〇
掛かりの四人は平田家をはじめ、いずれも富裕で信用のある商人が選ばれていた。
四人のうち、その年は竹野家が御用金の出し入れを担当していたようである。いわゆる年番にあたろうか。
掛かりの者には手当てが与えられた。文政四年(一八二一)十二月とみられるが、右の町用金掛かりへの手当として金二歩(一両の半分)が支給された(『鶴ヶ岡大庄屋宇治家文書』下巻)。それほどの金額ではなく、多分にボランティアの側面があったのであろう。
また、困っている住民誰にでも貸し付けたのではなく、それなりの商いを行っている商人が対象だったはずである。この頃は銀行などがなかったので、個人的に家屋敷や土地を抵当にして、他の商人から借りるのが一般的であったが、町用金の方が条件が良かったものであろう。
同じ文政四年とみられる巳十二月のこと、翌五年に八代藩主酒井忠器が上洛するに当たり、竹野家は寸志金三百両を上納した。分家の竹野善蔵は二百両であった(同前)。
文政八年の分限者番付「鶴亀松宝来見立」(郷土資料館)では、竹野家は東方(酒田・鶴岡の分)で前頭十枚目であった。
竹野治郎右衛門よりも上位として挙げられているとみられる鶴岡商人は「行司」の地主長右衛門、「勧進元」の西海三郎兵衛、同「差添」の鷲田長兵衛、「小結」の金屋(風間)幸右衛門、「前頭」の平田太郎右衛門、同じ「前頭」の深沢与兵衛の六人であり、竹野治郎兵衛はそれに次いでいた。
竹野家より下位として三ッ井弥三右衛門、兼子平八、荒井伝右衛門、秤屋(匹田)市郎右衛門らがいる。当時、三井家などよりも富裕とみられていたのである。
文政八年より六年後の天保二卯年(一八三一)の分限者番付「鶴亀松宝来見立」(元十両花筏氏による)では、竹野治郎兵衛は東方(町方)の前頭八枚目に挙げられている。
その時、竹野治郎兵衛より上位に挙げられているのは、「勧進元」の西海三郎兵衛・鷲田長兵衛の両人、「小結」の金屋幸右衛門、「前頭」の三枚目の平田太郎右衛門、五枚目の深沢与兵衛の五人であった。
治郎兵衛より下位には、兼子正八、三井弥三右衛門、荒井伝右衛門、秤屋(匹田)市郎右衛門。西海幸助、村田孫助、竹野善蔵、伊藤五右衛門などの名前があった。
竹野家が十九世紀前半にはかなりの商人と評価されていたことが知られる。
天保二年のこととみられる卯年十月二十二日に、治郎兵衛は三日町(現昭和町)平田平太郎右衛門家で、藩より料理が与えられた(文化三年より「諸御達御触等控帳」荒町真島家文書、郷土資料館)。
前年天保元年がかなりの凶作だったので、翌二年に富裕商人が米金などの提供を行ったことに対する褒賞であったと思われる。
天保四年には「巳年のききん」などと称される大凶作であったので、竹野家は救米二十五俵を提供した(工藤珉右衛門「諸用控」郷土資料館写本)。
天保八年十一月、鶴岡の糀屋は以後役銭取り立てを「廻り年番」に交代で取り立てることになったが、竹野治郎兵衛、真島藤右衛門ら五人は、寸志金五十両を指し上げた「奇特」者として生涯廻り年番の役を除かれて、役銭を吟味方役所に直納することが許された(同前)。
慶応四年(一八六六)七月「御分限帳」(鶴岡市史編纂会『荘内史要覧』)には、
拾壱人扶持 竹野善兵衛
とあり、年に米で約二十石が与えられていた。
2023年2月1日号
鶴岡荒町(山王町)に竹野治郎兵衛という豪商がいた。治郎右衛門と称することもあった。
江戸時代後半を中心に栄えた。
阿部久書店の店主だった故阿部整一(大泉散士)氏は『荘内日報』一九八五年(昭和六十)十月十二日付の「つるおか漂流記」で、戦前の阿部久書店の周辺の略図を紹介しているが、現在の木村屋本店の東方数軒先に竹野呉服店があったことを示している。
筆者も中学生頃の昭和三十年代前半に竹野呉服店があったことを記憶している。
遡って、文政三年(一八二〇)六月の「鶴岡荒町戸籍人別帳 壱」(鶴岡市郷土資料館)には、
一弐軒八厘三毛役
当辰五十五歳
長人組頭治郎右衛門〇
糀・味噌・酢・醤油家業
とあり、その頃は味噌・酢・醤油などを売る商人であった。醸造もしていたのであろう。
竹野家がいつ頃商売替えをしたのか知りたいところであるが、せっかくの資料である明治四年(一八七一)頃の「荒町絵図」(同館)には、何故か竹野治郎兵衛の名前が見当たらないようである。
ともかく、江戸時代の竹野治郎兵衛のことを少しふりかえってみることとする。
宝永三年(一七〇六)十二月の「鶴岡惣御町水帳」(同館宇治家文書)には、
一、五歩七厘五毛
次郎兵衛〇
表四間・裏行二十五間
とあり、これが竹野家のこととみられる。その通りとすればその頃はそれほど大きな商家ではなかったとみられる。
右の「御水帳」には、享保四年(一七一九)二月五左衛門と称する者から買い取った追加分の屋敷として、
一、九厘弐毛 同人〇
表口壱間・裏二十五間
も書き上げられている。両者を合しても六歩六厘七毛であり、間口四間余、奥行二十五間、面積百坪余ほどの屋敷であった。中核となる町人としては一軒前に少し足りないわけである。
享保五年の「鶴岡御町酒判御改帳」(『鶴ヶ岡大庄屋宇治家文書』上巻)に、荒町のところに治郎兵衛の名前がある。竹野家のことであろう。
江戸時代前期の鶴岡には百四十五軒も造り酒屋があり、各町とも酒屋の数が多かったので、後年とは異なり造り酒屋といっても特別な商人ではなかった。竹野家は江戸時代後期にも醸造業を行っていたが、醤油・味噌などの醸造であり、いつの頃か酒造を止めていたのである。
竹野家は宝暦三年(一七五三)四月に下山王社(日枝神社)の当屋を初めて勤めたのであり(「下山王御当(屋)」名前、郷土資料館)、その点からも十八世紀前半頃までは特に目立った有力な商家ではなかったことが知られる。
十八世紀中頃以降に興隆してきたようである。その結果、下山王社の当屋を勤めるようになったわけである。
庄内藩は十七世紀末から財政難に陥って、それにより商人などからしばしば御用金などの名目で米金を借用するようになった。額も初めは少なかったが、次第に高額となっていく。
安永六年(一七七七)酉十二月の「御返済金請取申事」(『鶴ヶ岡大庄屋宇治家文書』上巻)は、庄内藩が商人たちより借用した金子のうちの一部が返済された時の文書であるが、その時返済されたのは元金千五百二十両のうち僅か一割の百五十二両であった。元金千五百二十両のうち茨屋仁兵衛の三百両が一番多額であり、同じ荒町の竹野治郎兵衛がそれに次ぐ二百五十両であった。そのため、その時治郎兵衛が受け取った金額は二十五両ということになる。
寛政年間(一七八九〜一八〇一)の分限者番付「荘内分限見立相撲」(郷土資料館)では、竹野治郎兵衛は東方(酒田・鶴岡の分)前頭六枚目にあげられていた。鶴岡では「行司」の地主長右衛門、「年寄」の村井千太右衛門、「前頭」では西海三郎右衛門、鷲田長三郎、平田太郎右衛門に次いで竹野治郎兵衛である。一応六番目ということになろう。
なお、その下に金屋(風間)幸右衛門、深沢与平(与兵衛)、荒井伝右衛門、秤屋(匹田)市郎右衛門、村田孫助、真島藤右衛門らがいた。
当時、竹野家がかなりの富裕商人とみなされていたのである。
文化三年(一八〇六)七月に竹野家は藩に対し、御用金六十両と才覚金百三十両を提供した。なお、分家で富商の七日町竹野善蔵は御用金のみ十六両で、才覚金は提供しなかった(三日町鈴木家「御用金覚」郷土資料館)。
分家の善蔵家は数軒ある分家の中ではかなりの富商として知られていた(拙著『庄内藩城下町鶴ヶ岡の御用商人』)。