人物でたどる鶴岡の歴史
【本間勝喜氏略歴】
昭和37年 鶴岡南高校卒業
昭和41年 慶応義塾大学卒業
昭和49年 東京教育大学大学院退学
昭和61年 明治大学大学院修了、山梨県大月市立大月短期大学講師、羽黒高校講師を歴任。
現在、鶴岡市史編纂委員。
掲載インデックス 2024年
第151回 郷土史研究の先駆者 安倍親任と一族(一) 2024年12月1日号
第150回 心学の普及に努めた荒井伝右衛門家(六・おわり) 2024年6月1日号
第149回 心学の普及に努めた荒井伝右衛門家(五) 2024年8月15日号
第148回 心学の普及に努めた荒井伝右衛門家(四) 2024年6月1日号
第147回 心学の普及に努めた荒井伝右衛門家(三) 2024年4月1日号
第146回 心学の普及に努めた荒井伝右衛門家(二) 2024年2月1日号
■鶴岡の歴史 バックナンバー
・2023年 掲載 ・2022年 掲載 ・2021年 掲載 ・2020年 掲載 ・2019年 掲載 ・2018年 掲載
2024年12月1日号
「筆濃餘理(ふでのあまり)」など郷土庄内の歴史に関する著作で知られる安倍親任(あべ・ちかとう)は、庄内藩家臣として代官などの役職を忠実に勤めるとともに、家中に四家あった安倍家の系譜をまとめたのである(「参考安倍系譜」全四巻)。
右の系譜を調査する過程で付随的に明らかになった庄内の歴史や人物を「筆濃餘理」をはじめ、「筆濃餘理付録」、「筆濃餘理付録追加」などの著作にまとめたのである。それらの著作は現在、鶴岡市郷土資料館に保管されている。
親任は文化九年(一八一二)五月の生まれであった。同人は安倍甚兵衛家(知行七十石)に婿養子となった。実家は長坂家。父親は長坂市郎で、親任は三男であった。
長坂市郎は文化十三年子年の「御分限帳」(市郷土資料館)では
高二百石 長坂市郎
鉄砲組 子四十四才
鉄砲支配
とある。長坂家は知行二百石の家中であった。親任は父・市郎が四十才の時の誕生ということになる。
郷土資料館所蔵の「諸役前録」(全三冊)は藩の各役職の歴任者を年代順に挙げているが、その下巻に長坂市郎は文化十一年より同十四年まで御鎗奉行の役にあったとしている。おそらく鉄砲組支配というのは、御鎗奉行として当たっていたものとみられる。
三男であった親任は天保九年(一八三八)に安倍親則の婿養子となった(「新編庄内人名辞典」)。
庄内藩家中に安倍姓が四家あり、親任が婿養子に入った家は甚兵衛家であった。
親任の著作「参考安倍系譜」によれば、安倍家の本家は安倍惣内(伝大夫)家である。安倍家の遠祖は安倍頼時・ 貞任とし、それより連綿と相続して江戸時代となり、初代惣内(伝大夫家)は寛永十一年(一六三四)知行百五十石で召し抱えられた。家伝では同人は、初代藩主酒井忠勝が購入した掛軸「潮音堂」を寛永十八年二月に京都で受け取ってきたという(「大泉紀年」上巻)。
安倍家最初の分家は斎兵衛家である。初代斎兵衛は慶安二年(一六四九)御手廻に召し出され切米二十石三人扶持を与えられた。御手廻は準家中ともいうべき家臣である。
斎兵衛は延宝二年(一六七四)に新知五十石を与えられ家中に列した。正徳五年(一七一五)九月に加増五十石があり、合わせて知行百石となった。
勝木姓とも名乗った甚兵衛家出の勝木平三郎重良の養子・勝木平助が元文六年(一七四一)に折り合いの悪かった養母と妻を殺害し、家に火を付け自刃するという事件があり、勝木家は知行百石のうち二十石を減知され八十石となった(「勝木平助一件」)。
甚兵衛家は右の平三郎が初代であり、延享二年(一七四五)に安倍姓に改めた。二代が仁右衛門重政、三代が九郎右衛門良親、四代が九八郎親則、そして五代が甚兵衛親任、六代が平三郎親依(後に親名と改める)である(「代々勤書」郷土資料館)。
次郎兵衛家初代良永は本家伝大夫家二代真良の五男であり、元禄十六年(一七〇三)江戸で右筆となり切米二十石三人扶持を与えられた。右筆は文書・記録の執筆、作成にあたる役職である。
良永は名筆として知られ、「鶴岡市史」上巻にも能筆として名前が挙げられている。なお、そこでは良永が右筆となったのを元禄四年で二十三才のこととする。両者で十二年の差異がある。いずれが正しかったのか。
安倍良男編「庄内藩安倍次郎兵衛家の家譜」所収の「安倍次郎兵衛家勤書」では、良永は
一、元禄十六年未七月、江
戸に於て御祐筆被召出、
御切米二十石人御扶持
方被下置候
とあり、元禄十六年七月に江戸で右筆に召し出され、切米二十石三人扶持を与えられたとするので「鶴岡市史」上巻ではなく、「代々勤書」の方が正しかったとみられる。
安倍一族の中で有名な人物の一人として安倍惣蔵(宗蔵)が挙げられる。斎兵衛家三代目だが、実は朝丸村(余目地区)郷士・芳賀善兵衛の三男であった。十三才で安倍家に養われ同家を継いだ。
延享元年(一七四四)に物頭となり、宝暦六年(一七五六)三月に盗賊改めとして酒田に出張し、盗賊改役所を設置した。配下の足軽たちが鉄棒を持って巡邏(じゅんら)したので、恐れをなした盗賊、博徒たちが皆逃げ出したという。惣蔵は乱暴者で、我意にまかせて勤めたことから物頭の役を取り上げられ、謹慎処分となり、知行も五十石削られて百五十石となった。
「諸役前録(上)」(郷土資料館)には、物頭の歴任者の中に安倍宗蔵の名前があり
延享元年 宝暦御取上
と載っている。物頭を罷免されたのは宝暦八年のことであったという(「新編庄内人名辞典」)。
乱暴者ではあったが安倍一族の中では有名な人物であったことは間違いない。戊辰戦争の時に戦死した安倍藤蔵(次郎兵衛家)も見落とせない人物である。
2024年10月1日号
前回も少し紹介したが、安政二年(一八五五)四月から六月にかけて行われた江戸の心学者・中村徳水による庄内の道話廻村について改めて述べてみる。地元の心学者・荒井和水(伝右衛門)も同行した。
三月十八日(新暦五月四日)に徳水が弟子四人を伴って鶴岡に到着した。その後十日余り休息したようである。庄内には三カ月ほど滞在し道話に努めたことになる。
四月になると徳水は道話廻村を始めた。まず四月一日から十三日まで鶴岡五日町(昭和町)浄土真宗高運寺で道話を行った。その後四月十五日に酒田に赴いた。内川を川舟で下ったのであろう。十六日に曹洞宗海晏寺など四カ寺、次いで日吉山王社(日枝神社)を詣でた。ちょうど山王社の祭り日だったようで、当屋を回り祭り見物をした。
十七日は天気が良く、酒田を出立した。最上川下流部に位置する高野浜から舟に乗って加茂湊に行った。
加茂では豪商の秋野屋与七家に止宿し道話を行った。十八日も天気が良く、湯の浜三郎右衛門(五十嵐)家に足を伸ばした。昼食には酒も出た。当然徳水も和水も頂戴したことであろう。
江戸の心学講舎「参前舎」の塾頭ともいうべき都講らから荒井伝右衛門に与えた「印鑑」には、
一、酒宴遊興楽舞之席は
御同伴御無用之事
と記されており、心学の指導者らは酒席などに連なることを禁じていたが、昼食などで少々嗜む程度であれば問題なかったものか。
昼食の後、加茂に戻り豪商大屋八郎治宅で道話を行い、更に宝光院という者の家でも道話を行った。少々の酒では差しつかえないほど徳水も和水も酒が強かったのかと思われる。
十九日も「同断」とあるので、大屋家で二日続けて道話を行ったのであろう。その後翌二十日にかけてとみられるが、また秋野屋与七家で道話を行った。その際、四人の者が入門した。入門とは弟子になることか。
二十一日加茂を出立し、湯の浜から面野山村、押切村などを経て余目の興屋村に行き、同村の豪農・佐藤多郎左衛門家に泊まった。そこまで見送ってきた秋野屋与七らも一緒であった。
二十二日から二十四日まで同地の曹洞宗宝護寺で道話を行った。四人の者が入門した。二十五日に余目を出立し廿六木村などを経て松山に行き、同地の渋谷伝四郎家に泊まった。同人は松山藩士とみられる。二十五日より二十七日まで同地新屋敷の日蓮宗真学寺で道話を行った。
二十八日は松山の豪商・斎藤弥右衛門家で道話を行った。その際、松山藩士の小華和鉄之助ら三人が入門した。その後、徳水らは鶴岡に戻って休息を取っていたものか、動静について記事がない。
五月八日になって、川舟で酒田に下った。やはり内川経由だったものか。なお和水は一日遅れて九日に酒田に下って、同地の豪商・白崎五右衛門家に泊まった。おそらく徳水らも前日から同家に泊まっていたのであろう。
同九日から十五日まで同地の社僧五大院で道話を行った。十一日に白崎五右衛門など四人が入門した。十三日に糟谷源吾宅に泊まった。旧家の粕谷家のことであろうか。
同十七日午前中に豪商・柿崎孫兵衛家で道話を行った。そして午後酒田を出立し、最上川の渡しから新堀村などを経て余目の町村の豪商・佐藤善治家に泊まり、翌日も滞在した。
同地の八幡神社で道話を行い、十九日に鶴岡に戻った。二十日から二十六日までまた高運寺で道話を行い、その後、数日休息し、六月三日に徳水は鶴岡を出立し、清川を経て六月十六日(新暦七月二十九日)江戸に到着した。真夏になっていたわけである。
八月、和水は徳水に参前舎の御印の下付を願って聞き届けられた。荒井家文書の中に「印鑑」とあるのが、それのことであろう。五日町川端の鶴明舎では四日と九日と月に六日間夜講話が行われた。
ところで、荒井家は安政三年(一八五六)七月から安政六年正月にかけて鶴岡の豪商など数人から借金した。一〇両から一〇〇両の金額である。合わせると九百両余になる。もちろんいずれも利付きである。なお、三日町(昭和町)の平田太郎右衛門家は安政二年頃から年々米八俵ずつ支援した(拙著『江戸時代の庄内あれこれ』)。
和水が心学の普及に熱を入れるとともに、本業の商売が振るわなくなったものであろうか。それに鶴鳴舎の維持にも費用がかさんだものか。
ところが和水は安政六年四月に死去した。享年五十九であった。七軒町(三和町)の菩提寺連台院に葬られた。借金の件は相続人の養子伝蔵に委ねられた。
伝蔵はしばらく五日町の店で頑張っていたが明治十年(一八七七)以降に店や屋敷を売り払い八坂町(大東町)に移転した。その後もしばらく質屋を営んでいたようである。なお明治四十二年の「鶴岡商工人名録」などに五日町とあるのは誤まりであろう。
2024年8月15日号
荒井家心学史料の中には、天保十四年(一八四三)の「京都・東海道名所略記」が残されているので、この年、伝右衛門(和水昌義)は京都に行き、東海道を下って江戸に入ったものかと思われるが、五年前に江戸に上った時のように道中記のような形でなく、単に名所などを記しただけなので、実際に行ったのではなかったと判断される。いずれ行ってみたいと考えてのことではなかろうか。
嘉永元年(一八四八)に九代藩主酒井忠発が幕府より翌春に上京を命じられた。そのため御用金三十三両を命じられて上納したし、しかもそれを寸志金として差し上げた。
同五年三月に呼び出しがあったので、和水の父・伝右衛門(維章)が出向いたところ、日頃篤実で奇特の者であり、継母にも孝養を尽くし、大勢の家内が睦まじいし、難渋の者には度々施しをしている。そのうえ心学に傾注し、最近は鶴岡の町人に道話をいたし、追々付き従う者も多くなったが、同人らにも懇切に教え諭したので、少なからざる者が心がけを改めたし、他町村の者までも影響を受けていると聞いている。
そこで、称誉として金五百疋を下付し、なお一層心学に励み、付き従う者をも一層引立てるようにと言い渡された。なお、一疋は銭十文なので、金五百疋といっても金一両足らずである。
心学は江戸中期に石田梅岩を教祖として興り、その思想は神道・仏教・儒教を混淆し、商人の立場を擁護するものであった。梅岩は享保十四年(一七二九)四十五才の時はじめて京都の自宅に講席を設け、心学の講義を開始。延享元年(一七四四)まで十五年間、京都を中心に布教した。常に平易な道話で人びとの自覚を促し、身近な日常生活の中で道徳の実践を説いた。道話には神・仏・儒を利用したので封建道徳の枠を越えることはなかった(斎藤正一『庄内藩』)。
心学の道話では誰にでもわかるように身近な事例を引いて説くものであった。
和水は庄内で右のような心学に励み、広めて行ったのである。
それとは別に御用達として藩よりは引き続き御用金などが求められたのである。安政二年(一八五五)二月に御用金六十両を命じられたので、四回に分けて上納した。同月の「御用金被仰出候控」(鶴岡市郷土資料館鈴木家文書)にも、
五日町
一金六拾両 荒井伝右衛門
とある。
ちなみに、翌安政三年の分限者番付である「鶴亀松宝来見立」(『鶴岡市史 上巻』)によれば、東方(鶴岡・酒田の分)で前頭二十一枚目に荒井伝右衛門の名前がある。以前拙著『庄内藩城下町鶴ヶ岡の御用商人』(庄内近世史研究会)で富商として紹介した七日町(本町二丁目)竹野善蔵家は前頭二十枚目であった。つまり、その頃でも世間では、荒井家は鶴岡で十指に入る富商であるとみられていたわけである。
和水が嘉永五年(一八五二)三月に藩より称誉された理由の一つに心学道話のことが挙げられていた。
心学は十八世紀後半に全盛期を迎えた。父・伝右衛門も心学に傾倒したという。しかし十九世紀に入ると一旦、心学は衰退した。それでも庄内では心学の伝統がほそぼそと続いており、十九世紀中頃に和水が心学の布教に傾注したことで、再び興隆した。
和水は天保九年(一八三八)に江戸に行った際、著名な心学者・中沢道二が同地に設立した心学講舎の参前舎で勉強した。その後参前舎の第五世の中村徳水を招いて心学の興隆につとめた。
徳水は嘉永三年四月に鶴岡に来て、翌日から道話を始めた。庄内の各地を巡廻して四ヵ月に及んで道話を行った。それより庄内に心学ブームが起こり、心学社中に加入する者が千人にのぼったという。徳水は八月に江戸に帰った。この時の巡廻や道話の様子は「心学記行」に詳しく記されている(「心学記行」郷土資料館荒井家心学史料)。
和水は引き続き心学の布教に専心したので、受講者の数が増加し、専門の講舎が必要となったので、安政元年(一八五四)鶴岡五日町(本町一丁目)の内川端に鶴鳴舎を建設した。鶴鳴舎の舎開きは翌二年三月に中村徳水を招いて行われた。徳水は鶴鳴舎での道話に続き、庄内各地を巡講した(斎藤前掲書)。
同年の「心学廻村日記」(『山形県史・近世史料』2)では、三月十八日に徳水は鶴岡に着いたが、江戸大伝馬町西浦吉兵衛など門人四人を同行していた。
そして四月一日より十三日まで鶴岡五日町高運寺で道話を行い、それより酒田、加茂、湯之浜村、面野山村、猪子村、押切村を回って余目、松山などを経て、再び酒田に行って余目を経由して鶴岡に戻った。五月二十日より二十六日まで再び高運寺で道話を行ったうえ、江戸に戻るため六月三日に鶴岡を出立した。
2024年6月1日号
天保四年(一八三三)は「巳年のききん」と称されるように大凶作だったのであり、翌五年は深刻な米穀不足となったので、正月早々に合積(ごうづもり)が命じられた。合積は配給制度の一種である。自己申告による穀物私有調査のうえで、家臣および町人に合積を実施した。身分制度のもとで配給量は家臣に多く、町人に少なかった。
町人の場合、七才以上は男三合、女二合であり、六才より四才までは一合五勺、三才以下が一合であった。町方役人が一カ月三回に分けて米を受け取り、肝煎などの所を売渡し場所(米座)として売渡しを行った。代銭は十両につき四斗入十一俵半として、御用達が取り扱った(『鶴岡市史』上巻)。
荒井伝右衛門は右の件では同五年十二月に御用達の一人として鍛冶町(陽光町)に置かれた米座への立ち会いを勤めた。
その時施行米を差し出したので、称誉として藩より料理を与えられた。与えられた場所は三日町(昭和町)の平田太郎右衛門家だったのであろうか。施行した米の量は明らかではない。
天保七年三月に才覚金百両を命じられて上納したが、十二月に返済された。
同年頃とみられる「御給人・御用達分限帳(仮題)」(坂野下・菅原家文書、鶴岡市郷土資料館コピー)には「在町御扶持人」の中に、
代々御米宿次席
拾弐人扶持 御用達
荒井伝右衛門
とある。扶持米は文政七年(一八二四)に永々十二扶持とされて以来増加していなかったのである。
天保八年(一八三七)四月に才覚金二百五十両を命じられて上納したが九月に返済された。もっとも、同年九月に八代藩主酒井忠器(ただかた)が幕府より命じられて上京したことに当って、才覚金二百両を命じられて上納した。この分は同十二年十二月のこととみられるが返済された。
また右の上京に際し、同年より四年間に年々五十両ずつ、合せて金二百両を寸志金として差し上げたいと願って許されたのであり、それにより称誉として二人扶持が増されたので、合せて永々十四人扶持となった。年に二十五石余の玄米が与えられるものである。なお、寸志金の場合は差し上げたのであり、返済はされない。
翌九年二月に御用金三十両一歩二朱を上納した。詳しい事情は触れられていないが、御用金とあることから藩に命じられて上納したものであろう。
同年に荒井伝右衛門昌義(和水)は江戸方面に旅行したのであり、その旅行記が残されている(「江戸道中記」、郷土資料館荒井家心学史料)。同十四年にも上方や江戸に旅行している。
昌義は享和元年(一八〇一)の生まれであり(『新編庄内人名辞典』)、不惑の年令を迎える前後で、その年頃に京都や江戸で心学に出会ったのではなかろうか。
同年閏四月に幕府巡見使が下向してきたが、荒井家は一行のうち道具方の宿泊を命じられて勤めた。巡見使の派遣はこれで終わりとなった。
同年冬、新町(新海町)で道普請が行われた。なぜか御用達が交代でその場所に出向いて、働いている人足たちが寒さを凌げるようにと衣類などの品物を提供したのであり、困窮者を親切に取扱ったし、安米などの世話もしたとして称誉する言葉を頂いた。
天保十年十一月でも引き続いて荒井家は菩提寺蓮台院の檀中惣代を勤めていた。
同年の「七日町絵図」(写、郷土資料館)には荒井伝右衛門の名前は見当らない。その頃までには完全に五日町(本町一丁目)の方に転居していて、七日町とは一応縁が切れていたのである。
同十一年二月に無尽取入れの引当てに五日町の家屋敷の一部を向けた時の引当て証文が残っていた(「御用達町人の御用留(仮題)」荒井家心学史料)。
天保十一年(一八四〇)十一月一日、庄内藩主酒井家は突如越後長岡への転封を命じられた。三方領知替えの一環である。酒井家に代わって庄内に転じることになった川越藩松平大和守家では武器類を搬入するため、荒井家が土蔵一棟を貸すことを命じられたので、土蔵を提供したところ、称誉として五升入りの酒二樽が与えられた。
ところが、翌十二年七月十二日に転封命令が撤回されたのであり、その報は七月十六日鶴岡に届いた。その際、荒井家では冥加として寸志金百両を差し上げたいと願って許されたので、十四年に上納した。称誉として掛け軸二幅対を与えられた。
天保十三年二月、所持地である小真木村(日枝など)の畑六筆・四反歩余を十カ年季で民田村(民田)茂右衛門という者に質入れした。
同三月に才覚金百両を命じられて上納したが翌年十二月に返済された。同年八月庄内藩が命じられた印旛沼(千葉県)普請につき才覚金百五十両を命じられて上納した。翌十五年には御用金三一両二歩も命じられて上納した。
2024年4月1日号
文政四年(一八二一)三月の時点で荒井伝右衛門家は御用達並であった。特権商人として御用達と同様に扱われた。(『鶴ヶ岡大庄屋宇治家文書』下巻)。
同じ七月、伝右衛門は伜伝吉との長人役の父子勤め願いをした。長人は各町とも数人おり、有力者から選ばれるのである。七日町でも肝煎一人のもとに数人の長人がおり、相談役とでも言うべき役目であった。
当時、第五代伝右衛門は年令が四十一才であり、長人役を勤めていたが、疝気の持病があったため、父子勤めの願いをして許可された。腰や胃など内臓のあたりに痛みがあったのであろう。なお、伜伝吉が後に心学を広めた和水であったと推測される。
同じ年九月に酒井家の姫君が死去したので、鳴物の七日間停止などを命じる通知が町大庄屋両人より町年寄や御用達たちになされたが、その中に荒井伝吉の名前があった。当主伝右衛門ではなく伜伝吉であるのは何か事情があったのであろうか。それでも代替りがあったのではなかったようである。
同じ年の十一月のこと、翌年藩主酒井忠器(ただかた)が上京することを命じられ侍従に任じられた(『酒井家世紀』)。伝右衛門は恐悦のためとして寸志米五百俵を提供した。称誉として紋付上下一揃、紬一反、酒が与えられた。
文政五年二月に伝右衛門は七日町の大通りに面しているとみられる家一軒などと裏通りにある家二軒、ほかに長屋一軒、土蔵一棟を合せて金一八八両で一日市町(本町二丁目)金助に永代に売り渡した。これによって荒井家は七日町の家屋敷を引き払って五日町に移ったとみられるが、その後もなお七日町と関わりがあったようである。
同年四月、松の木一本を庭木として差し上げた。庭木を提供するというのは珍しいことであった。忠器の御居間の近くに植えられて忠器の日常を慰めようというのであろう。
文政七年五月、才覚金百両を寸志で差し上げたし、当時庄内藩の預り地となっていた天領蛸井興屋村(藤島地域)に所持している田地であり、作徳米(小作米)四十五俵四斗(一俵四斗八升入)で地敷金二二九両三歩の地を櫛引通の農民を救済するために櫛引役所に寸志差し上げたいと願って許された。称誉として永々二人扶持を加えられて、都合永々十二人扶持となったようである。同時に代々御米宿次席御用達となった。御用達並から正式の御用達に進んだのである。
ちなみに、上中目(藤島地域)富樫家には先の田地寄進の際の証文が残されている(上中目富樫家文書)。
文政八年四月、伝右衛門は才覚金二百五〇両の提供を命じられて上納したが、九月に返済された。同時に藩主忠器の上京のため、才覚金二百両を命じられて上納したが、それも文政十二年十二月に返済されたとする。しかし、文政八年の忠器の上京は幕府に命じられたはずであるのに、そんな大事なことが『酒井家世紀』などには記載がない。荒井家の方の記憶違いなどではなかろうか。
文政十三年五月に四所宮(春日神社、神明町)で五両掛無尽が町内連中によって開催されたが、金屋(風間)幸右衛門、田林半九郎、地主宗次郎などのメンバーから判断すると、町内というのは五日町(本町一丁目など)のことであったようである(「御用達長人の御用留」鶴岡市郷土資料館荒井家心学史料)。荒井家も連中の一人であった。
同年の秋の頃であろうが、五代目の伝右衛門は隠居が許された。
同年十二月、藩は御用達たちに金三千両の拝借を許した。伝右衛門も借用した一人であった。この頃の藩は財政的にゆとりがあったのであろうか。
天保元年(一八三〇)が凶作だったので、翌春、伝右衛門は困窮者に施行のため米十四俵を提供したので、藩より称誉の料理が与えられた。
天保四年秋はまれにみる大凶作だったのであり、米の値段が高騰したので困窮者に米十三俵を施行のため提供した。同年十月、才覚金百両を命じられて上納したところ、同六年に返済された。
同じ四年のこととみられるが、伝右衛門は自家のことを次のように記していた(同前)。
代々御米宿次席御用達
一、七分二厘五毛六払役
質並に木綿家業
当三十三歳 荒井伝右衛門(以下略)
これによれば、当時家族は九人で男四人、女五人であった。ほかに召仕六人(男四人、女二人)がいた。屋敷が七分二厘余役で以前と変わらないので、本拠というべき家屋敷は引き続いて七日町にあって、五日町の店はなお出店であったとみられる。家業は質屋兼木綿商であった。
2024年2月1日号
四代目の荒井伝右衛門の病死により、五代目の伝右衛門は享和二年(一八〇二)十二月に家督相続が許された。幼名丑吉といったが伝右衛門を襲名したのである。
その際申し渡されたのは、もし四代伝右衛門が存命であれば称誉するところ、すでに亡くなっているので、代わって今度一人扶持を増して三人扶持にするというのである。
なお、寛政八年(一七九六)に荒町(山王町)の下山王社の当屋を勤めた(「下山王御当始覚」郷土資料館富樫家文書)、四代目の時である。七日町(本町二丁目)でも相当の商人とみなされていたのである。
享和三年正月には、伝右衛門が難渋の者に同情して色々施行を行っていると、増扶持とは別に米三俵が与えられた。
当時、五日町(本町一丁目)の豪商地主長右衛門の名子であったとする。名子とは地主家が持つ店を借りているのである。荒井家は七日町に家屋敷を持つとともに、五日町に店を構えていたわけである。旅宿の多い七日町より五日町の方が商売に向いていたのであろう。
なお、その頃の荒井家は当主伝右衛門が六十五才であり、女房と倅・伝吉の家族と、合せて六人家族であった(『鶴ヶ岡大庄屋宇治家文書』下巻)。
同年五月、庄内藩は甲州筋川々普請の手伝いを行って金二万一三二〇両を費したのでそのため荒井家は御用金二十両を命じられて上納した。
文化二年(一八〇五)三月に、仙台藩の奥山大学という家臣の祖先が昔、大坂の陣の折に用いた唐銅鉄砲三十挺が払われたので、それに新たに仕立てられた唐銅鉄砲二十挺と、合せて五十挺を仙台で購入し、藩に寸志として差し上げたいと願って許された。
ほかに小姓具足二十領のうち十領を同四月に上納した。藩の会所に持ち込んで家老たちに見分してもらった。それらは最上の武器武具であるので、専ら海辺の備えに向けると申し渡された。なお傷みの出た分は仙台に指し戻して、何度でも鋳直すとしていた。
それまで、寛政九年(一七九七)にも寸志を差し上げたし、同十一年にも歩行立具足百領を差し上げたうえ、享和元年(一八〇一)には小姓具足三十領を差し上げたく願い出て、翌二年まですべて上納した。そのため購入すべくしばしば近国に出向いた。
それらを賞されて文化二年五月に、二人扶持を増され五人扶持となった。
翌三年三月、江戸の柳原・下谷両藩邸が類焼したので、御用金四十五両を命じられて上納した。ほかに才覚金七十両も命じられたので、翌年までに上納した。この分は文化十二年(一八一五)までに、年々分割して返済された。
文化四年三月、前出の小姓具足二十領のうち残り十領と共に、甲冑並びに唐銅鉄砲を追々差し上げたので、また二人扶持を加えられ七人扶持となった。
同五年七月、馬廻り具足三十五領を会津に注文し、新規に仕立てて取り寄せ、寸志に差し上げたいと願って許され、城内の白木書院三の間で飾り立てて御覧に入れたうえで、兵具方に納めた。藩主酒井忠器が在城中だったのであろう。その件での称誉として、二人扶持を加えられて永々九人扶持となった。
同十二月に、小姓具足二十領差し上げたとして、称誉に一人扶持を加えられ、永々十人扶持となった。
文化十一年(一八一四)十一月、近年藩の支出増が続いているので、米七百俵の寸志上納を願い出た。もっとも当年から三ヵ年で差し上げるものであり、ほかに町方備えの籾二百俵を五ヵ年で寸志差し上げの件も願い出た。
同じ十一月中に願いの通り許されたし、称誉として御用達並を命じられた。荒井家は特権商人の一人となったわけである。それより城下の外に出る場合は帯刀して往来することも許された。
同じ年十二月、翌正月に年始めの御目見が出願の通り許されたので、正月に御目見したのである。
文化十二年(一八一五)他国を往来するのに御伝馬を与えられた。馬に乗って行き来したのである。
文政三年(一八二〇)十二月、荒井家は谷口金兵衛という商人より金二百両を借用した(「借用申証文之事」、「御用達・長人の御用留」郷土資料館荒井家心学史料)。島村(千石町など)の地主永吉という者から田地を購入するためであった。
同四年正月に、母方の祖母が病死したので、正月の御目見は欠席した(「鶴ヶ岡大庄屋宇治家文書」下巻)。
同年三月に倅・伝吉が伊勢参宮の願いをして許されて出かけて行った(同前)。
同年五月のこととみられるが、菩提寺蓮台院の庫裏の屋根直しに際し、寺社方役所への二十五両の拝借願いが許されたが、荒井家は檀家惣代の一人であった(「御用達・長人御用留」)。