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私が暮らす街 2021

鶴岡に関する皆様からの投稿をお待ちしております。Eメール、FAX(0235-28-2449)でご応募下さい。

2021年7月15日号  鶴岡相撲連盟 大瀧 操さん

第249回 『素肌に廻し一本 精いっぱい己の力量に挑む 鶴岡少年相撲教室』

 夕方6時半少し前、練習生が小真木原屋内相撲場へポツリポツリと集まってきます。練習生の人数は多い時で6〜7人、少なければ2〜3人という状況です。かつて、後に大相撲入りした元幕内大岩戸や元十両北勝国、故人となった元幕下前田、そして、元三段目北勝鶴など20人くらいもいた頃と比べると、その隆盛を知っている者にとっては何とも寂しい限りというのが実状です。
 練習は週3日、月・水・金曜日の午後6時30分から8時過ぎまでで、他のスポーツ少年団活動や部活動などに比べても家庭学習の支障になることはまずありません。現在、鶴岡少年相撲教室に通う練習生は小学4年生から中学3年生まで総勢7人。全員が揃うことはなかなか難しいのですが、都合のつく限りは集まってきます。稽古場である屋内相撲場には、鶴岡出身で大相撲の立行司だった28代故木村庄之助直筆の「心・技・体」の額と、相撲教室の指導理念を示す「日常の心得」の額の2つが飾られてあり、練習生の稽古の様子を静かに見守っています。土俵は2面、稽古は準備運動から始まり、四股、腕立て伏せ、スクワット、すり足、そして先輩や指導者の胸を借りてのぶつかり、その後に対戦形式の申し合いとも呼ばれる三番稽古(番数が3つだけということではありません)へと進んでいきます。全員が黙 々と精いっぱい己の力に挑むように稽古に取り組みます。
 相撲は体重別が基本的にないので、体が大きくて重い者が有利なのは当然ですが、大相撲でも人気が出てきている炎鵬、石浦、照強、翠富士、宇良(今は大きくなりましたが)などの小兵力士の活躍は、あまり体格に恵まれない者にも勇気と力を与えてくれています。稽古という努力の積み重ねに裏付けられた技術とくじけない強い心があれば、いずれは大きくて重い相手をも倒すことが不可能ではないことを証明してくれています。
 練習生も小兵から大兵まで様々。ただ、現在は人数が少ないので切磋琢磨するためのちょうど良いライバルとなるような稽古相手がいないのが悩みの種です。競技する上での相撲人気低迷の大きな要因は素肌を露出すること、特に臀部(でんぶ)をさらすことが嫌われているようです(現在はスパッツを下に履くことも許されていますが)。しかし、練習生は気に留めることなく、誇りを持ち、裸一貫で一生懸命稽古に励んでいます。コロナ禍などで己の力量を試すための大会がなくなる中、己の力と技を高めるために、そして、いずれはより良い結果を出そうと黙々と取り組んでいます。
 6月5日に小真木原相撲場で開催された県中学生相撲選手権大会では、当鶴岡少年相撲教室の練習生が優勝。また、7月3日に舟形町の猿羽根山相撲場で開催された県学童相撲大会では4年生が準優勝、5年生が優勝・準優勝、6年生が優勝と、それぞれ活躍して東北大会への出場権を獲得し、大いに士気を高めてくれました。さらに、中学生は7月24日の県中学校総合体育大会に向けても、全国中学校相撲選手権大会への出場権獲得を目指して一生懸命稽古に取り組んでいます。
 一方、厳しい稽古だけではなく、1月の餅つき、2月のちゃんこ会、4月の観桜会、10月の芋煮会など、親睦をメーンにしたお楽しみ行事も設定されています。本拠地とする屋内練習場はプレハブ的構造になっているため、冬の寒さだけは厳しいのですが、温水シャワーや風呂場も設置されているので比較的恵まれており、汗と土にまみれた稽古後の体もさっぱりとして帰れます。
 また、相撲教室では稽古場に掲示してある「日常の心得」にもあるように、競技力だけではなく人としての在り方や人間関係、そして礼節についても大事に指導しており、その理念は1988年の開設以来、変わることなく脈 々と受け継いできています。
 最後にお誘いで恐縮ですが「恵まれた体格を生かしたい、自分の力を試したい、自分の力を発揮したい、相撲が好きだ」という小・中学生がおられましたら、どうぞ小真木原運動公園鶴岡ドリームスタジアム脇の屋内相撲場内にある鶴岡少年相撲教室へ、まずは見学にお出でください。歓迎します。大会出場に向けての短期入門も可能です。
 土俵に上がって素肌に廻し一本、精いっぱい己の力量に挑戦してみませんか。

【大瀧 操さん】
1953(昭和28)年生まれ 鶴岡市湯田川在住 鶴岡相撲連盟理事長

2021年6月15日号  鶴岡市上畑町 花筏 健さん

第248回 『内川散歩』

 内川に面した川端通りのお色直しが着々と進んでいる。今期は三雪橋(赤い橋)から鶴岡信用金庫本店のある千歳橋までの間が工区のようだ。だが川岸にある柳や桜、歩道もそのままであるから、道路の東側の整備が主眼と思われる。これまで医院や住宅が並んでいたのをセットバックして新しい歩道が造られている。これによってこれまで建物の陰となり見えなかった庭などが露わになり、見知らぬ土地へ来たような気分にさせる。そんな風景の中で思わぬ新発見をしたりするのも楽しみの一つである。
 この工区ではないのだが、三雪橋の馬場町側にあったコンクリート製の古い建物が消えて、小ジャレた店に替わっていた。「何の店だろう…」とその前をゆっくりと通ったが、老人には敷居の高い構えで、遠くから眺めるだけにとどめた。しかし「あそこにあった古い建物は何だったのか…」と気になり、調べてみると「昭和16年に鶴岡市が初めて消防車を購入し、その格納庫として建てたもの…と分かった。最先端の消防車を保管するのだから、それなりの車庫にしなければならない…と木造ではなく、あえて鉄筋コンクリート製にしたのか。さらに消防署員5名が昼夜交代で勤務する鶴岡初の常備消防署であったようだ。あの建物には中央に仕切りがあり2部屋になっていたと記憶する。もちろん片方には消防車で、もう一方は5人が一日中待機する部屋であったのだろう…。これはコロナ禍ではなくても、やっぱり息苦しかったのでは…。
 赤い橋の下流が千歳橋(信用金庫)で、さらに下が開運橋である。開運橋のそばに立っていた3階建ての鶴岡魚類ビルが先般解体された。関係者に「創建は昭和36年の秋」で、骨格はまだまだ丈夫であったが、心臓部の冷凍機能が老衰したため…と伺った。社長は業界の実力者であると同時に、熱心な柏戸後援者としても名高い人で、2階の事務所には柏戸とのツーショット写真がたくさん飾られていたのを思い出す。
 その下流に通称「第2公園」と呼ばれる小公園がある。新興地の人たちには「第2公園とはおこがましい…」と笑われそうだが、今もそう呼ぶ人が多い。
 町内の団結を図るに「祭り」が有効とされ、古来より寺社の参道がその場とされた。それをヒントに新興地にも立派な広場を備えたのである。それらに比べると「第2公園」は狭く、設備もお粗末なのに、ナンバー2を笠に着るのはおこがましい…と思う人があるかもしれない。
 昭和10(1935)年7月、市議会は「文化都市」を目指して大泉橋上手の河川敷600坪を整備して公園に…と話し合い、公園設立への一歩を歩み出した。ところがその予算はなかった。翌11年5月の『荘内新報』に「三井定氏より1000円の寄付」という記事がある。この1000円が現在、どれほどの金額になるかは分からないが、これを機会に工事が始まったのは容易に推測される。公園には三井氏寄贈の「慈愛母子像碑」が立っているのをからませ、三井氏がこの土地を寄贈した…と思っている人もいるようだが、江戸時代から堤防を兼ねた道路が今日のように存在し、その内側は河川敷であったことが分かる。
 この公園と道路を挟んだところに「馬頭観音」社があった。これは明治初期に馬場町から移転し「馬市」のシンボルにしたのである。明治から昭和中期まではとても賑わい、昭和25年の馬市には牛20頭、馬10頭が売買された…。その頃馬は一頭3000円、牛は8000円であったと新聞にある。この社の例祭は8月末に行われ、近郷の力自慢による相撲大会が目玉行事であった。梵天を肩にした人には一晩「飲み放題」の福賞もあったとか。しかし牛馬が耕運機に代わった頃から世相が変わり、いつの頃からか子供の大会となった。その頃「梵天」を手にした少年が後に力士となった例もある。祭りが変わり、いつの間にか社殿そのものも消えた。どこへ行ったのか…と尋ね回ると「荘内神社の神官が来て祈祷していたから…そっちでは…」と教えてくれる人がいた。早速公園で小祠を探し回ったがそれらしいものは見当たらない。宮司さんに尋ねると「それは精抜きという儀式で、社殿を取り壊すのに先立ち、神様の精霊を建物から抜く儀式です」と教えてくれた。こうして馬頭観音は消えたのであった。

2021年5月15日号  鶴岡市上畑町 南波 純さん

第247回 『中高一貫校と致道館教育』

 鶴岡に「中高一貫校」が開設される。そもそも地方自治体が税金を使って中高一貫校を設立すること自体賛否が分かれる問題であろうが、長く教員を務め、首都圏で私立中高一貫校に勤務した経験のある私には、今一番気になる話題の一つである。
 私が教員としてスタートを切ったその学校は当時開校したばかりで、所属していた高等部には、暴走族に入っている子や、他校を退学になって来た子たちもけっこういて、なかなか大変だった。
 一方、一期生だった中等部の子たちは東京近郊の「お坊ちゃま」が多かった。高等部の生徒たちに苦戦していた私にとっては癒し的な存在だったし、将来の「期待の星」として学校も大切に育てていた。その後、私は同校を離れたのだが、両面をフォローしながらまとめていくのに約10年を要したらしい。  教育に熱心な保護者は、教育環境へのお金のかけ方が半端ではなかった。授業参観日には高級外車で来校。語尾に「〜ざぁますのよ」というドラマに出てくるようなお母さんが実在することを知ったのも衝撃的だった。
 当時は職員室も部活動も中・高で同じで、教員は授業と部活の両方に関わっていた。部活で特徴的だったのは、中学の子たちは高校生から「中坊」と呼ばれていて、高校生、特に3年生は「雲の上の人」的な存在。階層のような、身分関係のようなものが存在していた。
 教員が担当する教科は、専門学科ベース。数学は大学の「数学科」出身の先生が、物理は「物理学科」出身の先生が教える。私は地理学科の出身なので地理を担当していた。地方の公立高校では、地理を教えているのは必ずしも地理学科出身ではないし、他の教科でも、専門外の方が担当していることは珍しいことではない。
 しかし、私立の一貫校では、教員の専門性にこだわっている学校もあり、進学実績という点では、その辺りで大きな違いが生まれていることだろう。
 私は高校3年生の所属で「進路指導部」に配属された。そこでは「この学力の生徒がここの大学に入っちゃうの?」という驚きの連続だった。要するに「大学進学に関するノウハウ」だ。地方にはノウハウがないため、優秀な生徒でも能力を十分発揮できていない可能性がある。地方の公立校と都会の私立校という教育環境の違いが、進学実績にかなり反映されていることに気付かされた。
 開校予定の鶴岡の一貫校は、現在の鶴南と鶴北の校舎を活用するそうだ。中高一貫校は、同じ空間に中1から高3の生徒が共に過ごしていること自体にさまざまなメリットがあり、部活でも高校生の先輩の姿を身近に見ながら子供たちは成長し、上達していく。教員も6年間という長いスパンで子供たちとともに過ごし、見守りながら適切な進路をアドバイスしていく。
 首都圏の私立の学校では、教員の異動がないので、卒業まで確実に生徒を見守っていけるし、専門性の高い教員をスカウトすることもできるだろう。しかし公立校の場合、異動もあれば、中高一貫校だけに教員を集めることには限界があることは今から予想できる。とすれば、鶴岡の中高一貫校には、学校が目指す明確な目標やビジョンを持ち、長期的な視点で教育や指導に取り組むことが不可欠だ。
 かつて庄内藩の藩校だった「致道館」の教育の特色は、「天性重視・個性伸長」と「自学自習」、「会業(対話的な学び)の重視」だった。生徒一人一人の生まれつきの個性に応じてその才能を高めることを基本にしながら、知識を詰め込むことだけではなく、自ら考え、学ぶ意識を高めることを重んじた荻生徂徠の思想に基づくもの。  中高一貫校に、この「致道館教育」を取り入れてはどうだろうか。大都市圏の中高一貫校のまねではなく、日本中どこを探してもないような、自由で斬新な学校にできるのではないか。
 もっと踏み込むならば、制服選択制を導入したり、校則も最小限として生徒に大幅に自治を認める。受験教育や管理教育に走ることなく、庄内の風土や文化を生かした探求的な学びと、最先端のデジタル教育を融合させた教育を進める。
 子供たちの「内発的な動機付け」により、意欲的に学び、進路を考える環境が整えば、学力も進学率も高まるのではないか。地元や県内の子供たちが入学を希望し、全国からも集まる「学びと文化を創造する都市・鶴岡」にすることが期待できる。
 市民の間には中高一貫校に対して不安や懸念を抱いている方も少なくないであろう。この学校が致道館教育を体現する場となり、世界の最先端をリードする人材が輩出することで市民が誇りを持てる学校になることを期待したい。

2021年4月15日号  鶴岡市宝田二丁目 佐藤 宗雲さん

第246回 『とわずがたり其の十四「私の地方創生論‐鶴岡を創造学園都市へ」』

 桜の花が満開の中、高校生たちが就職や進学のため巣立った。未来には予期せぬ困難が待ち受けているだろうが、克服し、佳き人生を歩んでほしいと願う。一方で、この中から、鶴岡に帰住してくれる若者がどれほどいるかと不安もよぎる。
 子供が生まれてから18年間に要する一人の費用は、家計が1800万円、校舎等の施設や教職員など公費が1800万円、合計3600万円と推計される。現在、鶴岡市の18歳人口1500人のうち、将来、70%の1050人が鶴岡市以外に就職等により移住すると、毎年、378億円、またはこれに近い金額の人的経済資源が県外に流れる。これに大学等の進学者への支出を加えると、鶴岡市は年間予算の倍以上の380億円もの人的経済資源を毎年失っていることとなる。この損失は極めて大きい。
 日本人の令和二年の出生数は86万人だった。単純比較すると鶴岡市の出生数は1000人程か。これは筆者が出生した昭和22年の4分の1に近い。政府は、20年以上前から東京一極集中の解消、男女共同参画、同一労働同一賃金の実現、地方創生等を唱え推進してきた。しかし、いずれも殆ど進捗していない。日本の女性国会議員の割合が2020年は10%で、世界の近代国家162カ国中120位。先進国の中では最下位。非正規雇用は年々増加し、今や就労者全体の4割を占める。貧富の差が拡大し、中間層は最大時より半減している。これでは非婚者が増加し、子供が生まれない。筆者が子供の時分「貧乏人の子沢山」と大人たちが自嘲気味に言っていた当時と隔世の感がある。
 山形、酒田、米沢には大学の本部があり、新庄には近く農業専門職大学が開設される。山形県第二位の人口の鶴岡には本部を有する大学がなく、山大農学部があるのみで、学生数(2年次後半以降)は300人程度。山形には大学が4校あり、6000人の学生がいる。鶴岡との差は実に20倍。鶴岡に若者が極端に少なく感じるのも首肯できる。鶴岡市は平成の合併時(温海・朝日・櫛引・羽黒・藤島)には15万人。現在は12万余人。若年層や働き盛りの人口減少に歯止めがかからず、商店や事業所の廃業が相次いでいる。20年後には7万人台、50年後には3万人台と予測され、その大半を高齢者層が占めるという。
 県や鶴岡市は慶大先端生命科学研究所などの事業を後押しし、観光招致を展開する金融機関はじめ、企業も数々の地域振興策に取り組んでいる。鶴岡に移住する家庭も出てきているなど、その萌芽も見られる。ただ、その子たちが中学、高校へ進むようになると、東京等へ戻る家庭も多いという。鶴岡には山大農学部以外に有望な進学先(総合大学)がなく、子の将来を考えると永住を逡巡するという。結局、人口減少に歯止めがかからず、むしろ減少の一途をたどっていると言っても過言ではない。国や県の政策の効果を期待するのは百年河清を俟つようなものか。若者の定着を進め、均衡のきいた年齢構成を保ち、商店、企業、女性、働き手が躍動する街になるには、革命的ともいえる起死回生の施策を講じる他ないのではないか。
 批判を承知のうえ愚案を申せば、鶴岡を「創造学園都市」に持ってゆくのも選択の一つと思う。法学、文学、史学、理学、工学等の学科を有する公立の総合大学を創設する。昼夜開講、一定期間の集中講義方式やSNSを導入し、教育の質を高める。教員や学芸員などの養成課程を設け、資力が乏しくとも学力と意欲ある若者に道を開き、自宅から通えれば家計の負担が軽減される。遠隔地の人も入学しやすくなる。いずれは地元の医師確保のため有力医科大の支援を受けながら医学科も設置したい。もう一つ、学力の高い私立大学の学部一つをそっくり鶴岡へ移設してもらうよう強力な誘致運動を図るのも良い。これらが数校あればなお良い。鶴岡市と姉妹都市の米国Nブランズウイック市の人口は5万人、大学生は3万人以上という。良き事例と思う。大学は研究と教育の府であり、知識と技能を生む「産業そのもの」である。宿舎、食堂、書店、生活用品、医療、交通網はもとより、雇用が生まれ、関連事業も起きる。
 実現には岩盤のような障害が次々と立ちはだかるだろう。800もの大学があるのに、これ以上大学を造ってどうなるかと反対論も出るであろう。しかし、閉校する大学や短大が毎年何校もあり、帳尻は合う。巨額の金もかかるが、国には通貨発行権があり、金は無尽蔵である。市当局、国会と地方議会の諸氏が身命を賭して取り組めば打開できる。できなければ代案を研究いただきたい。各政党は議員候補者の男女比を1対1とするクオータ制を導入し、議員の兼業も認めれば立候補率も向上しよう。
 歴史は、自然現象ではない。指導者や民衆が行動した(あるいは行動しなかった)選択の積み重ねである。一人ひとりが未来の子供たちと歴史に重大な責任を負っていることを互いに自覚したい。
    (浄土宗藤澤寺 住職)

 

2021年3月15日号  鶴岡市上畑町 花筏 健さん

第245回 『新山神社』

 泉町の龍覚寺は羽黒山中の一宇から始まり、その後三和(藤島)から浜中街道へ移って、江戸時代初期に現在地へ移転した…と『山形のお寺さん』にある。その領主であった最上氏が鶴岡城の整備中で、城中にあった「新山権現」を泉町の現在地へ移転して山号を「新山」とした…。同様に古四王社も現銀座通りの松森写真館裏へ移転し、「大光寺」とした。その後酒井氏が入部され、龍覚寺の位置が城の鬼門に当たることから、酒井家の祈願所に指定された…とか。
 龍覚寺は数段の石段を上った高台にある。寺社が高台を選ぶのは、人々から見上げられる…という意識も含むのだろうが、それ以上に先祖の遺骨を不浄な水に浸されるのを避けるため…ではないかと推測する。
 龍覚寺の前は戦後もしばらくまで「新山田圃」と呼ばれる水田地帯で、二、三年に一度は水浸しとなる低地であった。雨量によっては、現山王プラザ裏から現荘内病院、馬市場一帯が水浸しになった。その度合いは昭和よりも江戸時代の方がはるかに多かったことだろうから、住職はそんな土地柄を考慮し『洪水時は人々の避難所に…』と考えたのかもしれない。  江戸時代の絵図には龍覚寺境内に「新山神社」も併記されている。このように寺社が同じ境内に共存する例は、当時それほど珍しいことではなかったようだが、明治になって『神仏分離令』が発せられるやそれが不可能となり、神社の存続か、寺の継承かの選択に迫られた。この時龍覚寺は寺院を選んだのである。
 神社は何処へ行ったのだろう…。お寺さんへお尋ねすると「お山王はんへ…」と移転先を教えてくれた。距離的にもうなずけるし、現に日枝神社の境内には幾つかの小祠が存在するから、そのうちの一つであろう…と思い境内を見回した…が見当らない。宮司にお尋ねすると「ここには祀っていない…」とのお答え、どこへ行ったのだろう。
 移転先を探そうと図書館で資料を開いてみたものの、それらしい文面に出会うことはできなかった。その代わり「新山神社」の数の多さ、御祭神の複雑さを知り驚かされた。
 「新山神社」の御祭神は倉稲魂命(ウカノミタマノミコト)であることが多い。この神様は平たく言えばお稲荷さんである。農村地帯にあって豊作祈願の神を祀るのはごく自然なことである。その次に多いのは須佐之男命(スサノオノミコト)、や大穴牟遅神(オオナムチノカミ=大黒様)であった。中には木花咲耶姫(コノハナサクヤヒメ)、田心姫(タゴリヒメ)、玉依姫(タマヨリヒメ)などの女神もある。
 旧西田川の新山神社は播磨、小京田、中京田、茨新田、大淀川、下小中、大岩川、浜温海。東田川では荒沢、上名川、下名川、越中山、蛸井興屋、東堀越、小増川、東荒屋、松根、宝谷、我老林…とかなりの数である。中には今泉などのように新山神社と書いてニイヤマ神社と読むものもある。
 龍覚寺からの移転先は簡単に目星が付くだろう…とタカをくくっていたが、田川地区だけでもこれだけあり、酒田、飽海を加えればかなりの数になる。さらに最上地方や村山地方にもあるようだし、謎は解けぬままである。  この神社のルーツを辿ると秋田県の本庄市にある新山(シンザン)神社に到達する。この社殿が中世末の争乱期に兵火で焼失した。それを最上義光の家臣楯岡満茂(村山市と深い縁の人)が再興し、由利の総鎮守とした…ことから最上氏と縁が深い神社となった。
 庄内での勧請(神様を迎えること)は大岩川の1182年が最古のようである。これは年代的に最上氏とはつながらないだけに真偽のほどが危ぶまれるが、今泉や温海の1550年、播磨の1573年などは最上氏の影響で勧請したものと推測できよう。大淀川の1808年は一番新しい例である。しかし龍覚寺から移転した社殿の行方は分からず仕舞いであった。

 

2021年1月15日号 鶴岡市上畑町 花筏 健さん

第244回 『鶴岡駅』

 鶴岡駅の開業は日本の鉄道開通(明治5年)からほぼ50年後の大正8年7月ことであった。鉄道が上野から北へ延びて山形県へ届いたのは明治32年で、「すぐに鶴岡へも…」と思わせたが、新庄の先で最上川に阻まれた。しびれを切らした鶴岡では『促成運動委員会』を結成し、斎藤金吾、林茂次、鶴見孝太郎らが上京して促進運動をした…との新聞記事がある。その効果か「大正4年秋には道形、大宝寺で測量開始…」と『道形史』にある。「駅をどこにするか」…で議会が割れ、「鉄道院へ一任」で決着した。やっと駅の場所が現在地に決まると「市街地から離れ過ぎている…」とか「そこは大宝寺村なので、鶴岡は駅の無い町になる…」との反対が出たとか。そんな背景から鶴岡町と大宝寺村の合併が進み、大正13年鶴岡は全国で100番目の市になったのである。
 駅の予定地はほぼ真島某、安野某所有の田地で、すんなり交渉はまとまったが、日枝神社から駅までには道路が無かった、そこで本道(巾26m)と並行した副道路(般若寺脇と駅を結ぶ巾20m)も同時に造成した。この副道路がその後の駅前発展に大きく役立ったのだが、ややもするとこの副道路は見落されがちである。鉄道の開通で人や物資の流れが急増する…事を予想し、観光や商用者などの表玄関と、いわば資材運搬用の裏口を分けたのであろう。この案はやはり鉄道院の提案…と考えられるのが妥当だろうが、しかし他所ではあまり見かけることがないので、あるいは鶴岡の発想では…と考えたい。庄内では各駅の隣に米の倉庫が建てられ、秋には米俵を積んだ馬車が順番を待って長い列が出来た。その牛馬はその待機中に何の憚りもなく糞尿を放つ、これを観光客が見たなら…との配慮から発案されたのかも知れないが、その後この道路は鶴岡の発展に大きな役割を果たし、称賛に値する考案であると称賛したい。
 鶴岡の現代史でこの副道路以上に敬服するのは、昭和25年の夏に突然田んぼの中へ姿を現した鶴岡一中の校舎である。これは22年から実施された義務教育の6・3制により、中学校の造成が義務付けられたことによるものである。郊外の村々では小学と中学が同一学区であるため、小学校の隣に新中学校を建てグランドを共有する形式をとったが、市内の場合は小学が5校、中学3校であったため、3校とも新校舎を新築せねばならなかった。二中だけは五小の隣地に新築し、三中は24年市街地の南端(現文園町)に完成した。最後になった一中は市街地から一キロ余も離れた田圃の中で建設工事が始まった。
 当時大泉小学生の私は学校行事のたび徒歩で鶴岡へ向かった。道中に校舎建設の進行状況を遠くから眺めたものだが、子供ながら「何故こんな田んぼの中に建てるのだろう…」と思った。これは小学の私だけではなく、大人たちの口からも漏れていたのを記憶している。これは当時の市長加藤精三の決断によるものと伝え聞いている。
 中学に入る頃には丸屋根の体育館も竣工し、私が属していたバスケの大会は、ほぼこの体育館が会場で、何度となくここへ出入りした。高校へ通う頃には校舎の周辺にも住宅が建ち始め、さらに国道7号線の完成と相まってその速度は早まった。しかしまだまだ市街地から離れた田圃の中の離れ小島のような感じであった。
 その後しばらく他県で暮らし十数年ぶりに帰ると、二中は大宝寺から茅原へ移転し、栄、京田中を吸収した。三中は外内島へ移り斎、黄金を吸収していた。一中も、もう道路から見えなくなり、周辺は「みどり町」となっていた。稲穂の海に浮かぶ小島がわずかの間に市街地へと変わっていた…これは田圃の中に中学校を建てた当時の首長の「先見の明」とただただ舌を巻くばかりである。
「駅前の副道路を立案したのは、鉄道院ではなく地元の発案ではないか…との意識が日増しに強くなり、このような深謀遠慮の計画を思い立つのはそういるものではない。この人は一中を田圃の中に建てた市長の縁者ではないだろうか…」と勝手な推測を組み立て、当時の町議会議員名簿を調べた。「加藤卯吉」の名前を発見するとその足で旧『精三会館』を訪ねて「卯吉は精三氏の縁者ではありませんか…」とお尋ねしたが、残念ながらハズレであった。