人物でたどる鶴岡の歴史 2026
【本間勝喜氏略歴】
昭和37年 鶴岡南高校卒業
昭和41年 慶応義塾大学卒業
昭和49年 東京教育大学大学院退学
昭和61年 明治大学大学院修了、山梨県大月市立大月短期大学講師、羽黒高校講師を歴任。
現在、鶴岡市史編纂委員。
掲載インデックス 2026年
第159回 加茂湊の豪商大屋八郎治家(中) 2026年4月1日号
第158回 加茂湊の豪商大屋八郎治家(上) 2026年2月1日号
■鶴岡の歴史 バックナンバー
・2025年 掲載 ・2024年 掲載 ・2023年 掲載 ・2022年 掲載 ・2021年 掲載 ・2020年 掲載 ・2019年 掲載 ・2018年 掲載
2026年4月1日号
大屋家文書の中には、藩の方に提出した「勤書」二点が残されている。弘化元年(一八四四)八月と安政二年(一八五五)正月の分である。このような勤書は、藩などに奉仕したことを書き上げたものである。
大屋家では、初代から三代まで八郎治と名乗っていたし、四代目は初め喜之助と称し、後に八郎治に改めた。
五代目も初め真十郎と称したが、後にやはり八郎治と改めた。安政二年の勤書は六代目貞之助の名前で提出された。
さて、右の勤書によれば、初代八郎治は元文五年(一七四〇)に御用金三両を提供した。同家としては初めてのことだったのであろう。御用金は寸志金とは異なり、藩への貸金であり返済されるものであった。しかし財政難になると藩は約束通りに返済しないことが常態化した。
ただ、その時大屋家が提供した御用金は三両であり、それほどの金額ではなかった。しかも初代八郎治が提供したのはその時だけだったようである。
二代目八郎治は宝暦十一年(一七六一)に才覚金十八両を提供した。才覚金は、手持ちがないなどの時、工面して他所から調達した金子のことである。
それが事実とすると、御用金や才覚金を命じられるほどあり、それなりの商人であったであろうが、命じられた金子が多くなかったので、その頃はまだ加茂湊を代表するような商人ではなかったはずである。
ところが、宝暦十二年「京田通加茂村八組改御水諜」(鶴岡市郷土資料館加茂地区文書)に
高壱石九升六合弍勺
長人八郎右衛門
とあり、八郎右衛門(八郎治)が加茂村の長人役であったことが知られる。なお、秋野茂右衛門も同じ高で長人役であり、もう一人の長人、藤右衛門は高一石九升五合であった。加茂村の長人役は肝煎に次ぐ役とみられる。
ちなみに、当時加茂村には三百数十軒の村民がいたと推測される。ところが、右の「御水諜」では、例えば
高四斗八升四合 新八
というように、先の三人を除けば、村民はいずれも高四斗八升四合以下であった。つまり、ほとんどの村民は屋敷だけを持ち、少なくとも村内には田畑を所持していなかったのである。秋野家の集積した田畑も加茂以外の平場の村々に存在していた(『加茂港史』)。
そんな事情であるが、大屋家は一般村民の二倍以上の広さの屋敷を構えていたのであり、その頃には加茂湊を代表するような商人であったとみるべきである。
そして、明和八年(一七七一)には才覚金四一両二歩二朱を提供した。そのうち二〇両二歩二朱は返金された。次いで安永七年(一七七八)の才覚金は六十五両であり、そのうち半分の三十二両二歩が返金された。更に、天明七年(一七八七)には才覚金二十両を翌年と二度で提供したところ、天明八年に利息金が支払われた。金額は不明である。その頃は不作続きで、中でも天明七年は同三年と共に大飢饉の年であった。そんな年にも大屋家は才覚金を提供したのであった。
以上が二代目八郎治の代のことであった。二代目の没年などはやはり不明である。
三代目八郎治の家督相続年も不明である。おそらく寛政初年の一七九〇年頃のことであろう。
寛政七年(一七九五)に米価が高値の時に、加茂ではかなりの者が飯米に事欠く状態であった。そこで、以前にも何度もあったようであるが、大屋家は難渋の者に施し米を行った。そのため、藩より称誉として扇子五本が与えられた。
同九年四月、藩主酒井忠徳が幕府より命じられて、将軍徳川家斉の元服についての名代として京都に上ったが、その時の経費は約四万両で、それを領内に募った(『新編庄内史年表』)。大屋家はその時御用金五両を命じられて提供したし、別に寸志金二〇〇両を差し上げた。寸志金は自分の気持から差し上げたのであり、当然返済されなかった。
それに対し、八郎治には生涯二人扶持が与えられた。一代限りというのである。なお、一人扶持は年に玄米で約一石八斗与えられるものである。
八郎治は寛政十二年に御用金二〇両を提供した。享和三年(一八〇三)には御用金十四両を提供した。文化三年(一八〇六)三月に江戸で大火があり、庄内藩では柳原・下谷の両屋敷が焼失した(同前)。大屋家は御用金二両を提供し、別に才覚金五十五両も提供した。この金子の半分二十七両二歩は返金されたようであるが、残金の二十七両二歩は「指上切」と、返金を求めないことにした。
2026年2月1日号
加茂湊は庄内では、酒田湊に次ぐ海上交通の要衝であり、同湊は「かかり澗(ま)」といわれ、酒田湊を目指す船が強風を避け、順風を待ち、その間食糧や水を補給する目的で寄港したのである(日本歴史地名大系6『山形県の地名』)。
現代の加茂港は漁港としての機能が主である。しかし、江戸時代には大小の海船や商人が出入りし、商港として大いに繁栄し、多くの商人が活躍したのであった。
その加茂湊を代表する豪商といえば、秋野茂右衛門家のことがまず思い浮ぶ。
三十数年前のことであるが、同家の文書で、表題は失念したが、金蔵を建造するため金子千数百両を費やしたことが記されたものを見せてもらい、一部解読したことを記憶している。千数百両の金子を費やして造られた金蔵に入れられる金子は何千両、何万両であったろうかと思う。
江戸時代後半に、そんな秋野家に次ぐ加茂湊の豪商が大屋八郎治家であった。
鶴岡市郷土資料館には、江戸時代庄内の豪商・富商を書き上げた分限番付が何点か所蔵されている。
そのような分限番付はきちんと調査されたのではもちろんなく、あくまで当時の巷(ちまた)の評判や噂に基づくものであったとみられる。とはいえ、かなり実態を反映するものであった。
分限番付のうち、もっとも古い寛政年間(一七八九ー一八〇一)の「荘内分限見立相撲」では、秋野茂右衛門が西方の大関であり、大屋八郎右衛門が同じく前頭六枚目であった。なお、鶴岡・酒田の両町の分が東方であり、加茂湊を含む郷方の分が西方に記載された。右の二家のほかに、長沢七郎右衛門は前頭三十五枚目であった。
二十年ないし三十年後の文政八年(一八二五)の「鶴亀松宝来見立」という分限番付では、秋野は行司役とされ、別格の扱いであった。
大屋八郎治は前頭五枚目であり、寛政年間のものに比べて一枚だけ上がっていた。しかも、番付の一番上段に名前があって、その前後に見られる商人の名前はまさに庄内を代表する豪商ばかりであった。なお、長沢長左衛門は十六枚目であり、かなり上昇していた。ほかに秋野由兵衛も二十枚目に出ている。
わずか二点の分限番付の紹介であるが、大屋家は加茂湊では秋野茂右衛門家に次ぐ豪商とみなされていたことは明らかである。
『加茂港史』によれば、大屋八郎治家は問屋系商人地主であったとする。おそらく廻船問屋として活動し、それで得た利益を田地などの取り入れに向けたものであろう。大屋家の先祖は北陸の越前(福井県)住の前田八郎左衛門であり、元和年間(一六一五ー二四)の頃に加茂湊に移住してきた。その際、前田姓を大屋姓に改めたという。
問丸(といまる)を業として数代を経過したとする。
問屋とは、中世に主に港津に居住し、渡し船や商人宿を営み、年貢物や商品の中継、保管、輸送、販売に携わった業者のことであった(『岩波日本史辞典』)。
大屋家が加茂湊に来住した時、すでに江戸時代の元和年間に入っており、しかもその後数代に及んで中世的な問丸を業としたというのは少々疑問が残る。問丸は倉庫業と商業が未分離の状態であった。商人宿を営んだり、年貢物や商品の保管は基本的に営んでいなかったし、営んだとしても付随的にであろう。
大屋家はやはり廻船問屋としての営業が主であったと思われる。この場合の廻船問屋というのは、沿岸航路にあって、旅客・貨物輸送にあたる廻船と荷送人の間にあって積荷を斡旋する商人のことであった(同前書)。
ところで大屋家では、十八世紀前半の享保・元文年間(一七一五ー四一)に活動した当主を大屋家の初代八郎治とみなしていた。つまり十七世紀前半の元和年間から十八世紀前半の享保・元文年間まで一〇〇年ほどのことがほとんど明らかでないのである。
おそらく、その間は豪商などとみなされるような存在ではなく、小商人などとして活動し、暮らしを立てていたのではなかろうか。
そして、少しずつ商いを広げ、十八世紀に入ると、他領の商人とも商売を行うようになって、十八世紀中頃になると廻船問屋として加茂湊を代表する商人まで成長してきたものとみられる。
しかも、藩役所より富裕であると目をつけられ、御用金、才覚金などの名目でしばしば米金を提供させられるようになった。同家の文書(郷土資料館)では、天保五年(一八三四)十月に一代大庄屋格に遇されており、それまでにすでにかなりの米金を提供してきた結果であったことは明白である。
