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寄稿

【掲載インデックス】

「子どもにも大人にも人気 児童文学作家・斉藤 洋さん来鶴」

2026年9月1日号 子どもの読書を支える会 戸村 雅子さん

特別エッセイ「新陳代謝」

2026年1月1日号 作家 佐藤 賢一さん

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2026年9月1日号 「子どもにも大人にも人気 児童文学作家・斉藤 洋さん来鶴」
 子どもの読書を支える会 戸村 雅子さん<

 子どもたちが本を読まなくなったという声が広がる中で、学校図書館や市立図書で斉藤 洋(ひろし)さんの本の貸し出しは群を抜いているとか。
 斉藤さんの何が子どもたちを引き付けるのか、どこが面白いのか、また、子どもたちの本離れという風潮をどう見るかなど、私たち「子どもの読書を支える会」は、斉藤さんから直接語っていただきたく、鶴岡にお呼びすることにした。

 斉藤さんの作品のジャンルは信じられないほど多種多様、多岐にわたっている。「おばけずかん」シリーズ、「歴史物」ねこが主人公の「ルドルフ」シリーズ、らくごで笑学校、「イーゲル号航海記」シリーズなど、挙げたらきりがないのでこの辺で。とにかく著作が多く、市立図書館のサ行の棚の前で、どれを選べばいいか、くらくらするほどである。

 「ルドルフ」シリーズは全5巻、これが面白いと評判だ。物語は、ねこたちが言葉を交わし、友情を育て喧嘩をしたり悲しんだり好きになったり、ローマ字の勉強をしたりもする。彼らは「教養あるねこ」をめざしているのだ。しかし日常的にはやくざな言葉でどなったり、わめいたり、蹴ったりひっかいたり。そんなねこ世界だ。
 私が幸運にも市立図書館で手に取ることができたのは第5巻「ルドルフとノラねこブッチー」だ。ルドルフの友だちのブッチーが本篇の主役である。飼い主の金物屋が倒産して、ブッチーを置いてどこぞの町へ引っ越してしまった。ブッチーは考えた。自分を連れて行かないには、それなりの事情があるのだろうと。ところがしばらくして、ブッチーの友だちが町で金物屋を見かけたと言う。それからも金物屋はしばしば現れて、ブッチーを探しているようだと言う。
 ブッチーは、耐えていた飼い主への思慕を行動に移すことを決心する。「どんなことがあったとしても、おれは、もとの飼い主のところに行ってみせる」。ブッチーを応援するのはもちろんルドルフとイッパイアッテナだ。
 そして、飼い主探しの冒険が始まる。波乱万丈、劇的、ドラマチックな物語が展開する。
 艱難辛苦をものともせず、とうとう金物屋のすむ街にたどりついたブッチー一行。ところがそこには先住ねこが3匹待っていて、最後の熾烈な縄張り争いが始まるのだ。自分たちの名誉にかけても新参者を入れまいとする街のねこ。一方、やっとのことでたどり着き、会いたい人を目前にして負けるわけにはいかないブッチーチーム。その戦いはこの物語の華である。
 「おめえら、なんていう名だ」、「山賊あいてに、名のる名はない」。彼らがポンポン飛ばすやくざな言葉はリズミカルで軽妙で楽しめる。 
 この戦いはどうなるか? ブッチーは、金物屋に会えるか? 金物屋は、ブッチーを再び飼いねこに迎えるか?
 その意外な展開と結末に、私は涙したのである。

【斉藤洋氏 プロフィール】
 1952年7月16日生まれ。日本のドイツ文学者・児童文学作家。亜細亜大学経営学部教授。
 1975年中央大学法学部法律学科卒業。1986年に、第27回講談社児童文学新人賞へ『ドナルドとイッパイアッテナ』を投稿し受賞、児童文学作家としてデビューする。

2026年1月1日号 特別エッセイ「農業ルネサンス」
 作家 佐藤 賢 一さん

 京都の清水寺が発表したところ、昨年の世相を表す漢字一文字は「熊」だった。頷くしかないというのは、鶴岡でも熊は信じられないところに、信じられないくらいの頻度で現れたからだ。季節も問わず、一年中ずっと現れたので、朝晩は気軽に外に出られないと思うのが、もう当たり前になってしまった。外に向けても、鶴岡は良いところなので是非いらしてください、などとは簡単にいえなくなった。訪ねて熊に襲われたとなっては、申し訳ないでは済まされないからで、実際、鶴岡の観光産業には影響が出たのではないか。
 まさに由々しき事態だったが、さらに加えて、もうひとつ世相を表す漢字一文字を挙げるとするなら、それは「米」ではないかと私は思う。いうまでもなく、かつて覚えがないほどの値上がりがあったからだ。一昨年からの話で、たまたま米が不足したことによる、一時的なものかとも思ったが、昨秋に新米が出ても変わらなかった。すでに高値は常態化していて、それも改めて驚くことには、以前に比べて、ほとんど倍値になっているのだ。ペットボトルのジュースが三百円とか、軽自動車が四百万円するとか、そんなレベルの値上げだ。これが外国だったら、冗談でなく暴動が起きるのじゃないかと思うほどだ。
 それでも高値は変わらない。政府も、自治体も、基本的には介入しない(おこめ券だか商品券だかは配るようだが)。米価も需要と供給の市場原理で決まるのが本当だからというのだ。なるほど、その通りかもしれない。少なくとも理屈は通っている。しかし理屈は常に諸刃の剣である。
 これまでが安すぎたのであり、今が適正価格なのだともいう。確かに前は安かったが、なぜかといえば、米は日本人の主食だからだ。誰もが食べずに済まされないものだから、価格は安く抑えられてきたのだ。ひきかえに米作には特権的な地位が与えられてきた。補助があり、補償があり、高い関税で外国米を阻むことで、競争も免除された。この手厚い保護は、自由競争の市場原理に基づくものではない。逆に国による管理であり、操作であり、つまりは社会主義的だ。それで安値を強いられるのは不当だと、こたび高値をつけたわけだが、そうすると、もう後戻りは許されない。かえって米価が下がる日が来ても、大量の外米が輸入され、いよいよ暴落したとしても、あるいは天候不順で壊滅的な不作に見舞われても、全ては自由競争における自己責任なので、補助も、補償も得られない。いや、そんな話は聞いていない、何もなくなるはずがないと返されるかもしれないが、なお国が救済措置を講じるなら、その原資は税金なのだ。高い米価を支払わされた国民は、その投入を容認しない。選挙が怖い政治は改まらざるをえず、制度も変わらざるをえない。諸刃の剣というのがそこで、他面で農業には非常に厳しい時代が来たのだ。
 とはいえ、ここでもう一度ひっくり返せば、やはりチャンス到来である。これまでの農業は安全だけれど、がんばっても甲斐がなかった。これでは停滞、さらには衰退に向かうばかりだ。これからは違う。がんばれば儲かる。失敗のリスクもあるが、リターンも大きい。ありかたは一変して、まさに農業ルネサンスだ。農業が鶴岡の基幹産業のひとつであるなら、それは地域活性化のチャンスともいえる。既存の農家は励まなければならないし、新たな就農も、会社形態の大規模農業だって、どんどん奨励されるべきだと私は思う。休んでいる田畑があるなら、残らず任せればよい。それでも足りなければ、さらに切り拓けばよい。これからは自由競争なのだから、減反政策だって取り下げられざるをえない。農業が衰退して、耕作地が減り、里山がなくなって、その結果が自然と都市の近接であり、熊の出没を招いた一因であるとするなら、再び耕作地を拡げる農業ルネサンスは、獣を山に追い返す妙策にもなるだろう。